前回
その3
資料出展などは省略してます。
研究で使いたい方は本を購入して当たってみてください。
第2章
◆戦前であっても紡績工場や製糸工場の婦人労働には就業時間の制限(1929年)があったにもかかわらず、看護婦を保護するような仕組みは労働基準法が制定されるまで全くなかった
◆勤続年数は5年未満が87%で経験年数もほぼ同様であり、未婚者が9割前後であったことからも、戦直後までの看護婦は独身者で、短期に離職していた
◆看護婦の労働に関する規定は、多くの例外規定があって、保護が最も薄い職種の1つであったと言うことができる
◆大きな病院では比較的分化した給与体系を持ち、食事を支給して看護婦から食費を徴収する場合が多いが、小さい病院や診療所では、住み込み食事付きで月給何円と一本で決めているのが普通であった
◆診療所では通勤者が30.9%となっているが、病床数が多いほど寄宿・住み込みが8割を超えていた
◆1950年の完全看護の導入では、学生3名は、看護婦1名分にカウントされていた
◆1958年、完全看護から基準看護に変わり、労働力として看護学生が評価されることはなくなった
◆戦後、労働組合結成を奨励する中にあっても看護婦はそれほど積極的ではなかった
◆戦後は知識と技術を支えるものは精神であるとの教育が浸透し、組織率の高いところでも看護婦の労働者意識は低かった
◆初期の医療労働運動が、労働者の労働条件の確保と向上という日常的な要求に乏しく、民主化や軍国主義除去といった政治的スローガンは、理解が困難であった
◆戦後設立された日本赤十字社の労働組合「全日本赤十字社従業員組合」は巨大組織に成長し、経営協議会をもって経営にも関与しようとするなど急進的な高まりを見せた
◆1955年以前の病院で働く看護婦は宿舎を利用し、結婚する場合は仕事を辞めるのが当然のような状況であった
◆病院設置の保育所はすべての職場に即座に設置されたわけではなく、保育所という1つのファシリティだけでは看護労働を守ることはできなかったし、医療統一闘争(病院スト)の後も仕事と過程の両立には厳しいものがあった
◆1960年の病院ストは全国に波及したが、患者の医療には支障のないようにして行われたものであり、患者にも好意的に受け入れられた
◆看護婦の妊娠制限事件(1959年)
◆仕事と家庭の両立に困難する当時の看護婦のコラム(切実です。現在にも通じると思います)
◆1951年、厚生委員会草案を基に、準看護婦制度は成立した
◆なぜ準看護婦自身も自分を規定している制度を廃止しようと考えたのか。1つには後輩に自分と同じ思いをさせたくないと考えたこと、2つには、準看護婦の教育だけでは十分な看護ができないと考えたから(こういう側面は確かにあったと思いますが、若干日本看護協会寄り?)
◆準看護婦制度を廃止しなければならなかったもう1つの問題は、強制労働と言われても仕方のないような、人権を無視した労働の実態があったこと(准看護学校を仕事で休まさせられた。院長の家の畑を手伝わされた。病院研修での差別)
◆看護婦不足は解消されず、1969年、高卒プラス1年の準看護婦養成案を検討
◆1970年、佐藤栄作内閣が保助看法改正案が提出。目的は、①これまで中学校卒業以上であった準看護婦の基礎学力の水準を高等学校卒業以上として資質を高め、教育期間を短縮して量的確保を図る②国、地方公共団体が法人に対して設置する養成施設に要する経費を補助する
◆日本看護協会を中心に反対、結局審議未了廃案にされた
◆参議院社会労働委員会の委員長が社会党の佐野芳雄だったことが大きかった
◆清水嘉与子「その委員会が開かれても、その法案は全然かからない。つまり委員長がかけない」
つづき
その4
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