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2017年5月18日木曜日

先発品と後発品の差額を患者負担とするって、厚労省が財務省の手下になっちゃってる件

昨日の医療保険部会に、また凄いものが出てきたようですね。

厚労省保険局 先発品の償還価格を後発品の平均薬価に揃える制度を提案
https://www.mixonline.jp/Article/tabid/55/artid/57517/Default.aspx

「厚生労働省保険局は5月17日の社会保障審議会医療保険部会に、先発品の償還価格を後発品の平均薬価に揃える制度の導入を提案した。

具体的には、①先発品と後発医薬品の差額を患者負担とする、②患者負担にはせず、先発品の薬価を後発医薬品まで引き下げる-の2案。

この日の社保審では、薬価の高止まりが起きることへの懸念や、保険財政上の影響がないことなどを理由に、いずれの案についても導入に慎重な意見が相次いだ。

ただ、一部委員からは、後発医薬品80%目標のインセンティブの必要性などから、差額を患者負担とすることについて容認する声もあがった。」


元資料:厚労省HP
http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000164996.pdf
スライド7参照


いわゆる参照価格制度というやつですが、
2014年頃にも議論の俎上に上がっていました。
https://www.m3.com/open/iryoIshin/article/260707/


「①先発品と後発医薬品の差額を患者負担とする」
これヤバくないですか。

言い変えると、
「保険者は後発品の値段しか払わないよ。
先発品使いたければ、その分は患者が自費で負担してね。」
ってことですよね。

最近、生活保護の方については後発品を優先使用促進というような仕組みが検討されていたように記憶しておりますが、これは全被保険者について有無を言わさず後発品の薬価までしか償還しないということ。

おいおい、と。
そもそも後発品は治験をやっていないから、
一部の医師からは安全性や有効性には疑問が投げかけられているわけです。
それをこういうシステムで縛るというのは。。。

厚労省は本当に財務省の手下になりさがってしまったんかい。。。
日本の医療福祉はあなた達の手にかかってるんだぜ。。。

あと、注目すべきはこの記事の公開日時 
2017/05/18 03:52
報道関係者各位、おつかれさまです。。。
厚労省、労働関係も頑張って。




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2016年11月23日水曜日

「武見太郎」まとめ その7 ラスト

ラストです!

前回
その6

◆引退
・昭和55年 胃がんにより手術
・昭和57年 会長選挙において、考え方の近い宮城県医師会長亀掛川守を推すが、長野県医師会長花岡堅而に敗退(武見時代の終焉)。
・昭和58年 死去

◆日本医師会長 歴代在任期間トップ3
1位 第11代 武見太郎 25年
2位 初代    北里柴三郎 15年
3位 第2代  北島多一 12年

◆武見ってどんな人だった?
・開業医は病院を持つよりも、地域医療を大切にして、必要な患者だけを医師会病院などへ入院させ、あとは往診などによって、地域の家庭医として貢献すべきだ、というのがかねてからの武見の持論であった。 (三輪和雄)
・武見はいかにも哲学があるようなことを言うが、本当は“欲張り村の村長”の代表で、その主張をオブラートに包んでいただけだ。(舘林宣夫、技官、環境衛生局長、医療課長)
・武見の言っていることは、よくわからないことが多いが、彼の言う組合健保と政管健保を廃止して健康保険を一本化するという考え方は私は正しいと思う。ただ、武見に“それはどういう手順でやるのか”と聞いても“それを考えるのは厚生省だ”と言うだけだ(和田博雄)
・武見太郎の25年にわたる“闘い”を見ていて、ちょっとうんざりさせられるのは、武見がいつも医療の原則論を主張して、自民党は結局それを飲んで、いちおうの結末を迎えるが、自民党はいっこうにそれを実施しようとはしない。何年か経つとまた武見が同じことで怒る。その繰り返しのように思える。・・・武見が主張していることは、いつも同じなのだ。(水野肇)

◆武見の特徴(と言われるもの)
・反官僚
・パターナリズム
・人脈
・強烈なワンマン
・独自の生命・医療観と理論
独自の地域医療観や教育観を持っていた一方で、それらを実現させるために必要な医師会長(欲張り村の村長)の座を維持することとの間に葛藤があったのではないか。



参考文献
       

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「武見太郎」まとめ その6

前回
その5

今回の記事は、武見太郎関係の出来事についてですが、
主に島崎謙治「日本の医療」からのまとめが多いです。
本はサイドバーに⇒⇒⇒

皆保険前後の制度史的な話なので、
割と実用的な記事かな?
少しずつでもご覧ください。

↓それではどぞ


◆診療報酬関係 1
・医療制度のあり方をめぐって各種の審議会や委員会で議論が繰り広げられる
 -保険診療は公的医療保険制度の枠内にある以上、規格診療とするとともに保険医に対する規制も強化すべき(規制強化論)
 -保険医に対する規制は撤廃し、公的医療機関はともかく私的医療機関は原則として自由診療とし、患者は保険者から国が定めた標準医療費を療養費払いによって償還を受ける仕組に変えるべき(規制撤廃論)
七人委員会および医療保障委員会は基本的に規制強化論の立場
・社会保険による適正診療は一種の制約を受けざるをえない規格診療:医療保障委員会最終答申(1959年)
 -医療の本質が医師と患者の人格的な交流を基盤とする
 -「近代社会の進展にともなって、医療が多かれ少なかれ社会化していくとは必然の趨勢」
保険医と保険医療機関の二重指定制(1958年旧国保法改正)
 -診療報酬の受領等は組織体としての医療機関が行う
 -医師だけでなく医療機関の適性を確保する必要があった
 -二重指定制は今日に至るまで存続

◆診療報酬関係 2
「保険医療機関及び保険医療養担当規則」(1957年)
 -結核の治療、抗生物質製剤による治療などについて、個別に治療方針・治療基準等を定める
 -日本医師会(会長:武見太郎)は、規制強化の動きに医師の主体性と専門職の自由を侵害するものとして反発(皆保険実現により保険診療が圧倒的ウェイトを占めるようになった)
 -保険診療の内容については、1960年代には規制が撤廃される
  ■抗生物質の使用基準が大幅に改正(1961年)
   @抗生物質ごとにその使用製剤が掲げられていたが、薬価基準に収載されれば自動的に使用可に
   @抗生物質および関係製剤の使用順序の規制が廃止
  ■副腎皮質ホルモン剤の使用基準が大幅に緩和(1961年)
  ■「結核の治療方針」が全面改正(1963年)
   @化学療法におけるストレプトマイシン等の三者併用の適用範囲の拡大
   @試用期間の延長等の大幅な規制緩和
 -医学の進歩に即応し、保険医療の改善を図れる一方、医療費の増加、保険財政悪化の大きな要因となる

◆診療報酬関係 3
・診療報酬を巡る激しい対立
 -新医療費体系
  ■GHQサムスの指示により設けられた臨時診療報酬調査会(1950年)が「物と技術とが不可分の形をとっている診療報酬を物と技術の報酬に区分して考えるべきである」と答申したことが発端
  ■技術料が薬事料や注射料等の一部になっており、高い薬を使うほど高い収入が得られる仕組みとなっていた診療報酬体系を、技術料、人件費、諸経費、薬代に分け技術料を正当に評価する目的
 -原価計算の必要性
  ■厚生省が医療機関のコスト・収支状況等の調査等を行う(1952年)
  ■これを基に診療報酬改正案を作成し中医協に諮問(1954年)
   @日本医師会が反対
    ^診療の難易度に対する考慮がない
    ^総医療費の枠にとらわれている
    ^本音は、投薬の多い開業医の収入が減少すること(?)

◆診療報酬関係 4
・甲表と乙表の二本建てからなる新点数表が定められる(1958年)
 -甲表
  ■医師の技術を重視する観点から手術等の点数を高くする
  ■投薬などの点数を低くする
  ■初診や入院の際の投薬料や検査等は初診料や入院基本料に含める
  ■国公立病院や公的医療機関が多く採用
 -乙表
  ■投薬料・注射料について使用薬剤の価格に関わらず技術料は定額(物と技術を分離)
  ■他は従来の点数表通り
  ■開業医や中小病院の多くが採用
・診療報酬の改定プロセスと中医協
 -中医協における診療側の代表権問題
  ■日本医師会は強く反対、日本病院協会は賛成⇒診療側同士の対立
 -諮問方式と建議方式
  ■厚生大臣の諮問に応じ中医協が審議し答申するという諮問方式がとられてきた
  ■建議方式に変更(1967年)
   @諮問の範囲・内容に拘束されない議論
   @医師会と支払側(健保連や総評)のイニシアティブの取り合い
   @医師会のイニシアティブがなくなったためメリットがなくなる
   @諮問方式に戻る(1973年)

◆診療報酬関係 5
・日本医師会によるスライド制の導入要求
 -スライド制
  ■医業費用を1)医師給与、2)医師以外の医療従事者給与、3)医薬品を除く物件費に分ける
  ■1)は1人当たりGNP、2)は雇用者所得、3)は消費者物価指数に連動させて伸ばしていく
  ■単価(P)×量(Q)のPだけに着目しており、当時はQの自然増が大きかった(人口増、受診率増)
 -保険医総辞退(1971年)の収拾に際し政府と取り交わした
 -シンプルなので、改定幅を確実かつ迅速に決めるのに都合がよい
-1974年改定以降、実質的にはスライド制の考え方が取り入れられた(明確なルールとしてはない)
 -スライド制の見直し(1981年)
  ■医療機関のコスト増から医療費の自然増を差し引けば足りるという考え方が採用される(自然増控除方式)
・診療報酬の地域差撤廃
 -全国を3つに区分(1944年)
 -甲地(6大都市とその周辺)と乙地(その他の市町村)の2区分(1948年)
 -新医療費体系導入後も、甲地と乙地では、甲表では5%、乙表では8%の地域差
 -厚生省は国保財政への影響を懸念して地域差撤廃に反対
 -医療機関の都市部偏在を助長する要因は廃止すべきという声が高まる
 -保険医療問題懇談会の了解事項に撤廃が盛り込まれる
 -乙地の診療報酬を甲地並みに引き上げることで撤廃され今日に至る




参考文献
       

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2016年11月20日日曜日

「武見太郎」まとめ その5

前回
その4


◆医師優遇税制
・昭和23年以降、インフレ下においても診療報酬単価が据え置き。
・経済の混乱期で保険財政が赤字のため、診療報酬の支払が滞る。
・公共工事や政府購入物の支払の遅れには「支払い遅延防止法」で、遅延分の利息などが補填されたが、診療報酬に対してはそれがなかった。
・吉田茂宅に来ていた池田勇人蔵相(昭和26年当時)にこの不満を述べたところ、医療の公共性を認めた上で税の軽減を提案される。
・これに基づき約70%を必要経費とみなし、25-30%に対して課税することが閣議了解(大蔵省によると昭和47年度分で開業医の実際の経費率は診療報酬の50-55%)。
・自民党や税制調査会、大蔵省ら廃止論者との議論を続け、昭和54年に廃止。
 ⇒その後20年間この「悪法(※大蔵省や税調を皮肉った文脈で 塚崎注)」が続いたということは、社会的にも存在意義があったからだと私は信じている。(「聴診記」より)
  
・当時の医師会長は谷口弥三郎参議院議員
武見は「医師の公共性」を吉田と池田に説明して納得させた。しかし、著書に以下の様な記述がある。
 彼(谷口会長)は、医業の公共性という問題については全くふれずに、診療報酬がまともに払えるようになるまでということを、しきりと吉田総理に頼んだそうである。・・・私は谷口さんに対して、「あなたの考え方は将来の医師のモラルに禍根を残すことになる。診療報酬が適正化されさえすれば医師はそれでいいのか、私は全く反対である。」と、強硬に抗議をした。しかし、彼は、自分は大多数の医師がそれを望んでいると考えるからそういったのだといって自説を曲げなかった。・・・医師会を得るような国会議員を医師会として送るべきではないと、そのころから痛切に感じていた。谷口さんがもしも「医業の公共性」を認めていたならば、今日の診療報酬のあり方は、よほど違ったものになっていたと思う。(「聴診記」より)

◆日本医師会会長へ
・東京都医師会長の黒沢潤三、その次の東京都医師会長の小畑惟清に敗れた後、三回目の会長選で医師会長に当選(昭和32年)。
・会長以下役員の厚生省への挨拶を禁止。
 - 保険医の二重指定決定への報復。
 - 理事の厚相との個別の関係を断つ(ワンマンプレーへの布石)。
 - 神田博厚相(武見とは旧知)からの面会を引出し、二重指定について政令や省令の手直しを妥協の条件とする。

◆医療金融公庫
・昭和35年発足(岸内閣)。
・病院医療と開業医や保健所の活動を有機的に結びつけていく。⇒病診連携
・医師会病院を建設し、開業医を家庭医として、地域サービスを通じて病院と密接に結ぶ。
・公庫の金利を市中よりきわめて安く抑え、各地での医師会病院の建設を奨励する。
・個人の病院の増築などにかなり融資された。(⇒本来の武見の目的とは少しずれた)
・医療金融公庫は後に、社会福祉事業振興団と合併し、社会福祉・医療事業団になる。その後独立行政法人化し、現在の福祉医療機構(WAM)として現存している。



つづき
その6



参考文献
       

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2016年11月7日月曜日

「武見太郎」まとめ その4

前回
その3

◆理化学研究所時代・開業
・仁科芳雄に誘われ、慶応の内科医局を辞め、理化学研究所に入る。
  ※理化学研究所
    -大正6年(1917年)創設
    -高峯譲吉、渋沢栄一、桜井錠二らの尽力による
    -財源は皇室よりの御下賜金、政府補助金、民間実業家の寄付金により出発
    -戦中は軍事産業に利用される
    -多くのノーベル賞受賞者を輩出
    -2003年より独立行政法人化、2015より国立開発研究法人化
・自由に研究できる反面、無給だったので食いぶちを稼ぐ必要があった。
・医局に残れないこと、また、数の少ない官公立病院は帝大で占められていた。

・銀座4丁目に武見診療所開業(京橋、都医、日医に入会)
 -「日本医師会の活動にほとんど無関心だった」 出典:三輪和雄(1995)p.195
・吉田茂(義理の叔父)の組閣を手伝い、政界へ足を踏み込む。

◆日本医師会副会長時代
・東大教授佐々貫之・柿沼昊作が田宮猛雄を会長として推す際、副会長を武見に打診。
・「日本医師会の副会長を引き受けるかどうかで、実は三日ぐらい考えた。これは運命だ、と考えた。過去の自分の勉強に新しい活路を求めるとすれば、医師会は新しい天地だ。学問と社会をつなぐという役割が専門団体としての医師会にはあるはずだ。」  出典:三輪(1995) p.163

・昭和25年、田宮猛雄が当選し、副会長として医薬分業問題に取り組む(46歳)。
 -同代議員会にて「投薬は治療行為であり、治療は医師の全責任である」との決議。
 -昭和26年、『医薬分業は是か否か』という一般公開討論会にて、「私は医薬分業を実施していて、処方箋を書いて渡すが、現状では信頼できる薬局が少なく、正確な調剤ができるという保証はない」と発言(暴漢に襲われる)。
 -・GHQサムス公衆衛生福祉局長に「きみは戦争に負けたことを知っているのか!」と言われ、「あれは軍人が負けたのであって、医者が敗けたのではありません!」と発言し、辞職に追い込まれる。

◆医薬分業問題
≪医薬分業≫
 医師が患者に処方せんを交付し、薬局の薬剤師がその処方せんに基づき調剤を行い、医師と薬剤師がそれぞれの専門分野で業務を分担し国民医療の質的向上を図るものである。
 出典:平成24年版厚生労働白書より抜粋

・医師は古典的には、薬師(漢方薬の専門家)だった。
・医制(1874年) 第41条「医師たるものは自ら薬をひさぐことを禁ず」として、欧米の医薬分業が取り入れられたが進まず。
 -「当時日本には調剤薬局がほとんどなく、医療保険は薬剤を中心に組み立てられており、また患者は医師から薬をもらうことに慣れていたので、現実の問題として実施は困難であった。」出典:池上直己ほか(1996)「日本の医療-統制とバランス感覚-」より抜粋

・GHQ占領下、薬剤師会(武田孝三郎副会長)がGHQに推進を具申。
・GHQサムスは日医・日歯・日薬三者会談を指示(前述)
・昭和26年に医薬分業法成立するも、1956年改正等で日医により骨抜きにされる。
 -「医師・歯科医師・獣医師が、特別の理由があり、自己の処方箋により自らするときを除き」という但し書きが追加(薬剤師法19条柱書但書)


次回
その5



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2016年11月4日金曜日

「武見太郎」まとめ その3

前回

≪人脈≫

◆岩波書店・理化学研究所グループ
岩波茂雄
岩波書店創設者
中谷宇吉郎
北大教授・理化研
藤岡由夫
文理科大学教授・理化研
和辻哲郎
哲学者・思想家
西田幾多郎
哲学者・京大教授
鈴木大拙
仏教学者
安倍能成
哲学者・貴族院議員・文部大臣
学習院院長・法政大教授
小宮豊隆
独文学者・文芸評論家
仁科芳雄
理化研
 
学者

中山伊知郎
経済学者、一橋大教授


◆政治家・行政官
近衛文麿
総理大臣・華族
牧野伸顕
内大臣・大久保利通の娘
吉田茂
総理大臣・牧野伸顕の娘婿
米内光正
総理大臣・海軍大将・連合軍艦隊司令長官
石黒忠悳
陸軍軍医総監・軍医医学学校長・枢密顧問官・日本赤十字社長・武見家後見人・医学会社創設者(医師会の前身?)
石黒忠篤
農林大臣・農相大臣・参議院議員
南 弘
逓信大臣・台湾総督・枢密顧問官
大久保和喜子
高橋是清の娘・大久保利通の息子の嫁
橋本龍伍
厚生大臣・橋本龍太郎元総理の父

つづき
その4


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「武見太郎」まとめ その2

前回
その1


◆幼少~中学生期
・京都で生まれ、すぐに上野桜木町へ移る。
・日蓮宗の熱烈な信者で、アメリカ帰りの自由主義的な父。
  -「あの信念と発想は、少年期に培われた日蓮宗の宗教的下地と闘争心から芽生えたものである」
   三輪和雄(1995)「猛医 武見太郎」 p.226
・日蓮宗の高僧や元陸軍軍医総監石黒忠悳と幼い時から接触する。
・14歳の時、腎臓結核と診断され半年の命と言われる。まず1年安静し、念のためもう1年安静した。
  -この時、ダーウィンの「ビーグル号航海記(冒険と生物学のミックスされた叙事詩)」や「種の起源」、法華経の解説本、日蓮の伝記などを読みふける
・ある時期から急に良くなり復調する。
  -「私が医者になろうとおぼろげながら決心した時期がこの時代であった。・・・中略・・・当時の大家がどうしてなおったのかわからないと言われることに対して、子供心に反発を感じた。」
   武見太郎(1968), 『武見太郎回想録』日本経済新聞社

◆慶応普通部・医学部時代
・開成中学4年で慶応義塾普通部へ転入する。
・受験勉強をする必要がなかったため植物(薬物、漢方薬)や生物に親しむ。
・細胞分裂の標本を見て美しさに魅了され、医学部進学を決意する。
・医学部予科に進み、他学部の授業にも顔を出しつつ幅広く学問を行い、仏教青年会(仏教に関する勉強サークル的な団体)にも加入するなど、青春時代を過ごす。
・小泉丹教授の漁村の生活実態調査に随行する中で、地域医療に興味を持つ。

◆慶応大学医局時代
・教授をトップとした厳格な医局の上下関係に馴染めず、他の医局員から排撃を受ける。
・諸外国の文献をあたる中で、海外の最新の医療と、経験に頼る慶応の内科医局の格差を感じる。
・慶応大学に新設された食養研究所でお茶の効能など学際的な研究に没頭する。
・教授や事務長に直談判して心電計を購入させた。
・農林省共済会診療所の開設に際して、出張診療を命じられる(農林次官石黒忠篤の計らい)。医学部時代の経験も生かし、生活指導や食生活改善を農林省に進言する。農林省の官僚たちとの交際を広げる。
・岩波茂雄と出会い、多くの知識人との交流を得る。


つづき
その3


参考文献
       

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