2016年8月31日水曜日

障害学への招待 第2章-1 石川准

前回
第1章

◆ルサンチマン:特定の何かに向けられているわけでもなく、あらゆるものに向けられうる悔しさ
◆障害者のルサンチマンを語るのはとても難しい。
◆多くの人が同意をしたとしても、それらの人びとにルサンチマンが最初からあったことは証明にならない
◆構築主義では、Xとは、人びとがXと見なし、Xとして扱うものだと定義する。およそ定義とは言えない概念の扱い方だが、最近の社会学ではとくに珍しくない。
◆構築主義は、「言語/言語外の現実」、「主観的表象/客観的構造」「テクスト/コンテクスト」といった古典的名二分法を受け入れず、我々の前にあるのは言語・表象・テクストだけだ、というのがこの立場の論理的帰結。
◆構築主義に立つと我々は構築ということは言えても捏造ということは言えない。なぜなら実在するものを客観的に確定することができなければ、実態との差分がとれなくなるからである。
◆価値に手の届かない者はルサンチマンを抱き、価値を否定する。そして別の価値を創造する。自らが信じる価値を否定するには命がけの自己欺瞞が必要であり、それなしには価値の作り替えは成らない

◆人は、自分は価値ある特別な存在だということ、あるいは無価値な存在ではない、ということを証明しようとして日々行為する。これを存在証明と呼ぶ。存在証明は他者による承認を必要とする
◆一般に存在証明は、日常のルーティンワークを通じて達成されている限り、自覚されず、また他者に気付かれることも少ない。存在証明が指摘されるのは日常的なルーティンワークの外部に存在証明が「突出」した時である。
◆存在証明が突出するのはとりわけ被差別者において。差別は人から存在価値を剥奪する。差別を繰り返し被った人々は、激しい自尊心の損傷を経験する。損傷した自尊心は修復を要求して存在証明に拍車をかける
◆存在証明の方法
①印象操作:負のアイデンティティを隠し、価値あるアイデンティティを装う
 ⇒隠蔽しようとするほど、負のアイデンティティが自分の本質となる。悪循環。
②補償努力:社会的に価値あるアイデンティティの獲得
 ⇒補償努力では、「~にしては・・・」という形式の評価になる。さらなる存在証明へと駆り立てる
③他者の価値剥奪
 ⇒他者のおとしめであって、自分の価値が積極的に証明されるわけではない
④価値の取り戻し:社会の支配的名価値を作り替え、肯定的なものへと反転させる
 ⇒既成の価値体系の下で存在証明を成功させてきた人々から強い反発や拒絶を受ける。価値をめぐる激しい闘争を招く。
そもそも人が存在証明に躍起になるのは、社会が存在証明を要求したから。社会成員の行動を方向付け、管理し、限定し、秩序を調達している。
◆アイデンティティ問題が深刻であるほど、あるいは印象操作などの社会的機能を実感するほど、価値の取り戻しを求めるようになる。
◆もし自分と言いう存在そのもの、アイデンティティ抜きの「本来」の「わたし」に価値を実感することができれば、存在証明は不要となり、人は存在証明の悪循環から解放される。これを「存在証明から自由」と呼ぶことにする
◆価値の取り戻しと存在証明からの自由とは、概念上は異なるものの、現実には、未分化のまま渾然とした形で醸成されることが少なくない
◆「価値を増殖しようとする営みと価値」から自由になる営みと、あるいはアイデンティティへの自由とアイデンティティからの自由とは、アイデンティティ問題を解決するための手段と言う意味をはるかに越えて解放と共生の思想へと消化する可能性を含んでいる

◆価値の作り替えは卑怯であり下品だと言う人がいる。それなら謙遜や上品は傲慢である。
◆謙遜はことさら宣伝しなくとも、社会は自分を正しく評価・優遇してくれると社会を信頼するものほど維持しうる態度だから。






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2016年8月29日月曜日

哲学入門 ヤスパース 第4講

前回
哲学入門 ヤスパース 第3講

◆私たちのヨーロッパにおける神の思想には、歴史的にいって2つの源泉がある。それは聖書とギリシア哲学である。
◆この世界のうちにおいて一個の生活が、神の手に導かれて最善の努力を試み、しかもなお挫折したとしても、神が存在するという一つの驚くべき事実があとに残る
◆活動意欲は私たちの生ける証として先行し、そして最後に徹底的な挫折においてはじめてこのような意味を可能ならしめるものである

◆ギリシア哲学者たちによると、多くの神々が存在するのは、単に習俗によるだけのことで、本来はただ一つの神が存在するだけ
◆ギリシアの思想家たちにおいて問題とせられた神は考えられた神であって、エレミヤの生ける神ではないのである。しかしこの両者の精神は合致する
◆西洋の神学と哲学は、この2つの源泉から出発する無限の変遷過程において、神が存在するということと、神とは何ぞや、という問題を考えた
エレミヤ書 wiki


◆現在の哲学者は、神が存在するかどうかという問題を回避する傾向があるように見受けられる
◆哲学をするものは答弁を求められている
◆神学上の命題は、神はイエスに至るまでの数々の預言者によって掲示されたという理由によってのみ、我々は神について知ることができる、というものである

◆あらゆる神の証明に対する反駁は、神が存在しないということを意味するという帰結は誤り。神の存在が証明せられえないならば、それはおそらくこの世界内のある一つの事物であるにすぎないということを、示すだけである
◆全体者としての世界はけっして対象とならない。私たちは常に世界の中にあって、けっして世界を私たちに対立する全体として所有することはできない。


◆世界が非完結であるということは決定的な事実。世界は終わることがなく、むしろ永遠に変化しつつある
◆神の証明は、神を一種の世界実在に化そうとするもので、かえって神の思想を混迷に陥れる
神はけっして知の対象ではない、神は強制的に推論せられない、ということがたえず明らかになる

◆信仰はどこからくるのか。それは根源的には世界経験の限界から出てくるのではなくて、人間の自由から出てくる。自己の自由を本当に悟る人間が、同時に神を確認する。自由と神は不可分のものである。
◆私が本当の意味で私自身である場合は、私は自分自身によってそうであるのではないということを疑わない。最高の自由は、世界から自由であることによって、同時に超越者ともっとも深く結合されていることして自覚される

◆自由の確認がそれ自身のうちに神の存在の確認を含んでいるとするならば、自由の否定と神の否定との間にも一種の関係が存在することになる
◆神なき自由の主張と人間の神化との間に一種の関係が成立する。私が意思するという、誤った絶対的な独立性と解せられる者は、仮象的自由である。
◆私は自分独りの力によって私自身であるという自己錯覚は、自由な空虚な存在としての孤立無援の状態へ反転させるものである。
◆自由としての私たちの実存の開明によって、ふたたび神の存在が証明されるというのではなくて、それによっていわば、神の確認が可能である場所が示されるにすぎない

◆人間は自己自身に対して責任をもっているのであって、彼はいわゆる自由からして、自由を放棄することによって、この責任を逃れることは許されない。人間は、自分が決断し、道を見いだすということを、自分自身に負わねばならない
◆神が存在するという命題において本来的に意味せられているものは、超越することにおいて、すなわち実在そのものを通ってこの実在を越え出ることにおいて、はじめて本来の現実性として感得されうる
◆神の信仰の根源性はあらゆる媒介者を拒否する。神の信仰はすでに実際において、何らか規定的な、すべての人に対して言表可能な信仰内容の中にも存しなければ、すべての人にとって同様な、神を媒介する歴史的現実のうちにも存しない
◆神が存在するかぎり、神は回り道しないで直接に、個人としての人間にとって感得されねばならないのです

◆ものの直観はすべて、ものを形象として示そうとすると、かえってそれを隠すからして、もっとも決定的な神への接近は、無形象性において可能。しかし、旧約聖書のこの正しい要求は、旧約聖書そのものにおいてすら満たされていない

◆哲学することの究極において残るところのあのかすかな意識は、おそらく私たちがその周囲を回るだけで、直接それをとらえることのできぬもである
◆問いのないところには、答えもない。哲学することにおいてとことんまで駆り立てられるところの問いと答えを越えることにおいて、私たちは存在の静けさに到達する

◆神を信仰するということは、私たちが超越者の暗号とか象徴とか名づけるところの現象の多義的な言語として存在する以外には、いかなる仕方においても、この世界内において存在しないようなあるものによって、生きることをいう
◆私は信じているかどうかも知らないということを認識せねばならない。信仰は所有物ではない。信仰のうちにはけっして知の確実性は存在しない。むしろ生活の実践のうちに確認が存在するだけ
◆神について考えることは同時に、あらゆる本質的な哲学することの一つの例である。すなわち本来の哲学することは知の確実さをもたらさないで、本来の自己存在にそれの決断の自由な空間をもたらす
◆哲学的に語られた言葉はすべて、非常に簡略である。それというのは、哲学的な言葉は、聴く者自身の存在によって補われることを要求するからである


続き

第5講




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2016年8月28日日曜日

哲学勉強会

ヤスパースの「哲学入門」の勉強会。
もう、面白すぎるわぁ。

2016年8月25日木曜日

哲学入門 ヤスパース 第3講

昼活です。

前回
哲学入門 ヤスパース 第2講


◆本来の存在、あらゆるものを結合し、あらゆるものの根底に横たわり、存在するいっさいのものがそれから発生するところの存在とはいかなるものか。この問いに対する答えは驚くべきほど多様にある(水、火、土。。。)
◆本来存在とは何であるか、という問いに対するこの答えは世界内において現れる存在者をさしていわれている。そしていっさいの他の物はこの存在者から生れ出る、という特殊な性格をもっている
◆数千年の間においてこれらの立場の中で真の立場であることを証明できたものはない

◆私たちがあるものについて思惟し、それについて語るところの当のものは、常に私たちとは異なった別のものであり、私たち(主観)が、それを私たちに対立するもの(客観)として心を向けるものである
◆思惟する自我は自らこの思惟を遂行するが、しかしそれみずからはそれに適応した客観としては思惟されない
常に対象は私たちの意識内容として、外部的あるいは内部的に私たちに対立して存在している

◆存在は全体としては客観であることも、主観であることもできないで、むしろ包括者であらねばならないということ、そしてこの包括者が分裂して現象となって現れるということは明瞭である
◆包括者は自らは対象とはならないけれども、自我と対象との分裂において現象となって現れる

◆あらゆる思惟のうちに第二の分裂が存している
◆第一にそれは私、すなわち思惟する主観、と関係し、第二に他の対象と関係している。
◆あらゆる対象は思惟された内容として、けっしていっさいであるこも、存在の主体であることも、存在そのものであることもできません
◆思惟されているということは、すべて包括者の外へ脱落していることを意味します
◆この思想は私たちにけっして新しい対象を示さないからして、それは普通の世界知の意味においては空虚である。しかし、それはその形式を通じて、私たちにとって存在する存在者の現象の無限の可能性を開き、また同時に、あらゆる存在者を透明ならしめる

◆存在の中に侵入することは、ただ間接的にのみ行われる。なぜなら、私たちは語ることによって対象に関して思惟するからである
◆私たちは常に主観=客観の分裂状態におかれていて、それを外部からながめることはできないのですが、私たちはこの分裂について語ることによって、それを対象とするということになる
◆私が悟性として対象を志向しているか、あるいは行ける現存在として私の環境世界を志向しているか、それとも実存として神を志向しているかということによって、根源的に異なっている
◆悟性として私たちは、把握可能な事物に対立し、可能である限り、これらの事物について、すなわち常に規定された対象について、いなみがたく普遍妥当的な認識を得る

◆実存として私たちは神ー超越者ーに関係している。そしてこの関係は、実存が暗号または象徴たらしめるところの事物の言語によって生ずるものである。
◆もし私たちが包括者を確認しようとすると、すぐにそれは若干の包括者の様式へ分類されます。そしてこの分類はあの主観=客観の分裂の三様式を手引きとして行われる
◆包括者は、存在それ自身として考えられた場合は、超越者(神)および世界と呼ばれ、私たち自身であるものとしては、現存在・意識一般・精神・実存と呼ばれる

◆ヨーロッパの哲学者はいかなる場所においても、時代においても同じような意味のことを言っている。それは、人間は主観=客観の分裂を越えて、主客の完全な合一へ到達することができる、そしてそこではあらゆる対象性も自我も消滅するというもの
◆神秘主義者の神秘的な経験に対しては、もとより疑いをさしはさむことはできないが、あらゆる神秘主義者は言語によって自己を伝達しようと欲するにもかかわらず、本質的なものは言語によって語る事ができないという事実に対してもまた、疑いをさしはさむことはできない。
◆神秘主義者は包括者の中へ沈潜する。語りうるようになるものは主観=客観の分裂へ陥る

◆存在論や形而上学はしばしば対象知として理解されているが、絶対に誤り。むしろ対象知に尽きるものではなくて、むしろ存在の暗号文字であった
◆いわゆる存在認識はすべて、それが世界内にある、何か重大な存在者を存在そのものと見なそうとするやいないやその価値を喪失する。
◆しかし、私達が存在そのもの見るために世界の地平線内におけるあらゆる存在者を、すなわちあらゆる現象を、越え出るならば、形而上学は私たちにとって可能な唯一の言語となる
◆形而上学を通じて私たちは超越者としての包括者の声を聞く。そして私たちはこの形而上学を暗号文字として理解する
◆しかし、私たちが、この思惟を勝手に美的に味わうようなことをするならば、私たちは形而上学の意味をとらえそこなう
◆客体そのものを本来的な存在と見なすことは、あらゆる独断論の本質であり、また象徴を物質的な具像性として実在的だと見なすことは、特に迷信の本質である

◆包括者への人間の飛躍は、対象を規定する思惟の媒介において、しかもそれにおいてのみ、起こるものである
◆存在が私たちにとって存在するためには、存在が主観と客観との分裂において、経験を通じて心にとっても顕になるということが条件

◆私たちの思惟する現存在の根本的事実としての主観=客観の分裂の意識化と、その中に顕現する包括者の意識化は、私たちにはじめて哲学することの自由をもたらす
◆事物の絶対性と対象的認識論の絶対性の喪失は、これらのもののうちに自分のささえをもつ者にとっては、ニヒリズムを意味する
◆私たちの哲学的思惟は、むしろ本来の存在への解放であるところのこのニヒリズムを通っていくのであります。哲学することにおける私たちの本質の再生によって、あらゆる有限的な事物の、かつては制限された意義と価値が生じてくる

続き哲学入門 ヤスパース 第4講




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2016年8月22日月曜日

哲学入門 ヤスパース 第2講

前回
第1章


第2講

◆哲学の根源というのは始源を意味するのではない。
◆始源というのは歴史的な意味でいわれ、それまでなされた思惟の労作による蓄積された多量の前提を後継者にもたらすものである
◆根源とはいかなる時を問わず、「哲学すること」への衝動が生まれる源泉をいう

◆三つの根源的動機
1 驚異 
 ・驚異の念をいだくことから認識が始まる
2 懐疑 
 ・存在者を認識することにおいて、私の驚きと驚異の念を満足さすことができたとしても、まもなく疑いが生じてくる
 ・懐疑は方法的懐疑として、あらゆる認識の批判的吟味の源泉となる
3 喪失 
 ・世界内の対象的認識に専念し、確実性への道としての懐疑の遂行において、私は自分を忘れて、認識の行為に満足している

◆状況の一時的な現象が変化しても、その本質においては変化しないところの状況というものが存在する。このような私達の現存在の状況を限界状況と呼ぶ
◆私達が変化さすこともできない状況が存在するということで、これらの限界状況は驚きや懐疑についで、哲学のいっそう深い根源である
◆私達が限界状況を本当に把握するかぎり、絶望と回生によってそれに対処するかのいずれかである。後者の場合私達は、自分の存在意識を変革することによって自分自身になる。

◆人間が自然を支配するのは、それによって自然を自由に利用するため
◆しかし自然を征服する過程のうちには一般的にいって挫折がたえず存している
◆支配せられた自然の親しみとはすべて、全般的な不信頼性の枠内におけるある一つの例外
◆そこで人間は共同体を形成し、相互扶助によって安全を得ようとするが、ここにも限界がある。
◆お互いのために本当に踏みとどまる人びとは、常に限られた範囲の人びと

◆私たちの前に立ち現れるものはすべて人間が作ったもの
◆限界状況ー死・偶然・罪・世界が頼りにならないことーは私に挫折を示す
◆思惟の独立性としての自己固有の自由に変えれという、ストア学徒は、人間の無力を徹底的に洞見しなかったということによって、誤りを犯した
◆人間が自己の挫折をどのように経験するかということが、その人間がいかなるものとなるかということを立証する
◆宗教の特徴のとする点は、救済の真理性と現実性に対する客観的な保証にある

◆哲学的することの根源は驚異・懐疑・喪失の意識に存している
◆先人の困惑はいずれも、表象や言語の歴史的衣服をそれぞれ身につけたところの、それ自身の真理をもっている

◆三つの動機は、人間と人間との交わりという一つの制約のもとにおかれる
◆今日までの歴史においては、人間と人間との自明的な結合が存在していた
◆今日では、人びとはお互いに無関心であり、忠実さも共同性ももはやけっして疑問なきものでもなければ、信頼できるものでもない

◆私は他者とともにのみ存在する。ただ一人だけでは無
◆単に悟性と悟性、精神と精神との交わりではなく、実存と実存との交わりは、非人格的な内容や主張を単に一個の真理性と媒体としてもつにすぎない
◆闘争は愛の闘争であって、このような闘争にあっては、各人は他人に対してあらゆる武器を引き渡すのであります。本来の存在の確認は交わりにおいてのみ存在する

◆決定的な点においては、あらゆるものは相互に要求されあい、根底において問われる。このような交わりにおいて、はじめてあらゆる他の真理が実現される
◆哲学的な根本的態度というものは、交わりが失われていることによる困惑のうちに、本当の交わりへの衝動のうちに、自己存在と自己存在とを根底において結合するところの愛の闘争の可能性のうちに、根ざしている
◆あらゆる哲学は伝達への衝動をもち、自己を語り、傾聴されることを欲するということ、すなわち哲学の本質は伝達可能性そのものであり、またこの伝達可能性は真理存在から離すことのできないものであるということにおいて明らかになっている

◆交わりにおいてはじめて哲学の目的は達成される。そしてこのような目的のうちに、あらゆる目的の意義が基礎づけられる。この哲学の目的とは、存在の覚知・愛の開明・完全な安静の獲得

続き




2016年8月20日土曜日

大分県在宅フォーラム 幸手モデル中野智紀先生

12月に大分県で在宅推進フォーラムが開催されるそうです。

特別講演は埼玉県は幸手モデル、
在宅医療連携拠点菜のはなの中野智紀先生。
平成24年度 在宅医療連携拠点事業 のパワポ

昨年、縁あって幸手の地域医療連携の取り組みを見学させていただきました。
医療関係者だけではなく、団地、町内会、献身的な一町民、
色々な登場人物が色々な努力をされていて本当に参考になりました。

抱える課題もリアルでした。
地域包括ケアの一つの形をまざまざと見せていただき貴重な体験でした。

九州地方の方は是非参加して、お話を聞いて見てください。


2016年8月19日金曜日

ニラ10束10円

家の近くで、ニラが10束10円で売ってました。

驚愕の値段。謎。

もちろん買って、切って、保存。



一部はみじん切りにして醤油で漬けてタレに。



これを、朝ご飯、豆腐とゆで卵にかけて…



うまっっっ(・Д・)


花金、これから打ち合わせです。
みなさま一週間お疲れ様でした。

個別指導・適時調査の指摘事項 まとめ

東北更新しました!
古い年度は上書きされるので、要保存です!

医療機関に対する個別指導・適時調査の指導内容について、
ネットで手に入るものをまとめました。
厚生局は年度ごとに上書きされる可能性が高いので要保存です。

適宜更新します。

平成27年度中国四国厚生局 個別指導
平成27年度近畿厚生局 個別指導
平成27年度東北厚生局 個別指導
平成27年度東海北陸厚生局 個別指導

平成26年度近畿厚生局 個別指導
平成26年度関東信越厚生局 個別指導


平成25年度岐阜 適時調査
平成25年度和歌山市医師会 個別指導
平成25年度愛知保険医協会 個別指導

平成22年長崎保険医協会 個別指導

北海道厚生局 個別指導(過去の事案をまとめたとされています)
北海道厚生局 適時調査(このページに個別指導も記載)

追記
平成29年3月16日に厚生労働省の指導・監査情報のHPができたようです(おそっ!)
保険診療における指導・監査 厚生労働省HP

まだまだ内容はペラペラですが、
今後充実して行くと良いですね。
指導大綱とかが探しにくかったので掲載されて便利便利。


こちらおすすめ。



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スクラップしていた記事見出しまとめ~HPVワクチン・子宮頸がん関係~

2016年もホットワードのHPVワクチン。
記事の見出しです。

ワクチン行政って、個人の視点から見たらできないと思うし、
副作用0なんていう薬はほぼないから難しい判断ですよね。

もちろん、ワクチンが原因で(ここの因果関係の判断も難しいけど)副作用が起こった方には残念だけど、批判する人には、ワクチン行政の一定の意義を理解した上でして判断、批判ほしいなとは思う。

陰謀論と結びつけているのは、なんかもうノーコメント。


2016年
4/20 HPVワクチン積極的接種を推奨 17の学術団体が共同見解
 健康課、「寄り添う姿勢と科学的知見の尊重」の方針で対応

5/25 HPVワクチン勧奨再開の是非「調査踏まえ検討」 厚労省・正林課長
 桃井部会長 WHOや国内学術団体の声名「委員の意見募る」

6/14 子宮頸がん検診GLを17年度末までに公表へ がん研 濱島室長
 協会けんぽのがん検診受診率、健保組合より低い傾向

6/29 ワクチン因果関係判断せず 名古屋市、子宮頸がん調査

6/29 副作用研究で信州大調査へ 子宮頸がんワクチン

7/14 子宮頸がん一斉提訴は27日 ワクチン副作用で原告64人

8/5  副作用研究で信州大本調査 子宮頸がんワクチン





ワクチンの開発を執拗に阻むある理由 セス・バークレー


わが国における HPV ワクチン副反応続出の要因に関する研究―HPV ワクチン導入期の WHO, FDA, PMDA, 厚生労働省の見解の検討― 岩谷澄香

2016年8月17日水曜日

山本雄士先生のTED

山本先生がTEDに出られたそうなので動画を共有しておきます。





先生の本は ⇒のリンクより

先生の参加されている検討会

山本先生のHP

山本先生の会社のHP ミナケア


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哲学入門 ヤスパース 第1講

今日は有給休暇でございます。
来週の勉強会の課題図書をコツコツと読んでまとめいきます。


第1講
◆哲学とは何ぞやとか、哲学にはどんな価値があるかなどという問題についてはいろいろの見解があって、一致していない
◆科学と異なって、哲学の形態をとるかぎり、どんなものにも万人の一致した承認というものが欠けているという事実は、哲学という事柄の本性のうちに存しなければならない
◆完全な哲学は科学と結合しており、またそれぞれの時代において到達された最高の状態にある科学を前提とするものであるが、哲学の意味はそれと異なったある別の根源を持っている

◆人は科学においては、学習や練習や方法が理解の条件であることを認めるのに、哲学に関しては、即座にそれに参加して、ともに談ずることができる
◆人間は人間であるかぎり、根元的に哲学するものであるという事実を示す驚くべき証拠は、子供によって発せられる問いである。
◆子供はそれ以上に続けて哲学することはできないのだ、したがってこのような言葉は単に偶然でしかありえないという抗議は、子供の中には、しばしば成長するにつれて失われていくような天才的性質をそなえているものがあるという事実を看過している

◆根源的な「哲学すること」は子供だけでなく、精神病者においても同様に現れている。ときとして一般的な偽装の束縛が解かれて、深刻な真理が語るかのように思われることがある。
◆多くの健康な人でも、眠りから目がさめたとき、気味の悪いほど意味深いものを経験することを知っているが、それらは完全に目がさめているときは、ふたたび失われてしまって、ただもはや我々はそれに徹底できないということを感ぜられるだけ
◆哲学は避けられないものであるが、問題となることは、それが意識されているかいないか、それが優れたものであるか、つまらないものであるか、わけのわからないものであるか、はっきりしたものであるかなどというだけのこと

◆哲学者というギリシア語は、学者と対立する言葉であって、知識をもつことによって知者と呼ばれる人と異なり、知識(知)を愛する人を意味する言葉
◆哲学の本質は、真理を所有することではなくて、真理を探求すること
◆哲学とは途上にあることを意味する。哲学の問いはその答えよりもいっそう重要であり、またあらゆる答えは新しい問いとなる
◆哲学はある他のものからは導き出されない。哲学はいずれも自己を実現することによって自らを定義する。哲学とは何であるかということは、私たちによって実験されなければならないことである

◆教会に権威をおくところの考え方からすると、純粋独自的な哲学は避難される。なぜならそれは、哲学は神から離れ去って、人を現世的なものへ誘惑したり、虚妄なことでもって人間の魂を腐敗堕落さすかもしれないからである。
◆政治的=全体的な考え方はつぎのように非難する。哲学者は世界を単にいろいろと解釈したに過ぎない、ところが重要なことは世界を変革することなのである、と。

◆哲学を敵視する勢力といえどもなお、彼ら自身に固有な意義を考え、そして結びついた思惟の構成物を生み出さざるをえない
◆哲学の多様さ・矛盾・相互に排斥しあう真理主張、これらは根底においてある一なるものが働いていることをいなむことができない

その2





2016年8月16日火曜日

スクラップしていた記事見出しまとめ~中絶・生命倫理系~

何か気になる記事がありましたら是非コメントください。

2015/11/9 妊娠中絶18万件、最少更新 「避妊法が普及」と厚労省

以下2016年。

3/2  米で卵子凍結に補助拡大か 有名企業、軍隊も
3/15 女性4人の卵子凍結承認 浦安市と順天堂大の研究
4/12 人の受精卵改変、2例目 ゲノム編集で、中国チーム
4/26 人の受精卵改変を容認、ゲノム編集 政府の生命倫理調査会
5/12 少子化対策で日本版ネウボラ創設など提言 日医
5/25 中絶指定医資格を停止 横浜のクリニック元医院長ら
6/9  遺伝学的検査「厚労省が一元的に掌握を」 日医
6/13 千葉・浦安で卵子凍結実施 少子化対策、効果を調査
6/17 精子、卵子の結合構造解明 東京大、避妊に応用も
6/20 初の卵子凍結は20代女性 千葉・浦安、11人が準備中
6/20 幹細胞管理怠り死亡と提訴 4歳男児の両親、福岡
6/29 中絶制限の州法を無効判断 米連邦最高裁
7/12 ゲノム編集の医療応用議論 生命倫理など、学術会議
7/21 新出生時前診断、3万人超す 染色体異常の9割中絶、3年間集計

ああ、まだ8月の記事読み切れてない。
眠い。おやすみなさい。

2016年8月11日木曜日

障害学への招待 第1章 長瀬修

第1章
◆障害学とは、障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動である
◆障害学にとって重要なのは、社会が障害者に対して設けている障壁、そしてこれまで否定的に受け止められることが多かった障害の経験の肯定的側面に目を向けること
◆米国の自立生活パラダイム、米国の社会理論、社会モデルの確立によって、個人の問題という視点から、環境、社会の排除、差別へと視点は転換してきた

◆新たな障害の視点の確立は、例えば歴史の分野でこれまで隠されてきた障害者の存在を明らかにし、従来の歴史に障害者も付け加えるだけでなく、従来の歴史が非障害者の視点から見た歴史であったことをあらわにする取り組みである

◆歴史の中で障害が隠蔽された一例として、ルーズベルトが39歳でポリオにかかり、それ以降歩くことができず、車イスを常用していたことは知られていなかった
◆1997年5月、首都ワシントンにFDRメモリアルが建設された際に大きな論争となったのは、ルーズベルトが車イスを使っている像を建立するべきかどうかだった
◆当時の米国社会全般が持っていた障害に対する強烈に否定的な眼差しがあっただろうし、ルーズベルト自身にも投影されていたに違いない

◆歴史の常識の見直しを障害学は提起している
◆米国の歴史学者のマーサ・エドワーズは古代ギリシャ、特にアテネとスパルタで障害新生児が殺されていたとする常識に対して、疑問を提起し、この事実を裏付ける根拠がほとんどないと指摘
◆この神話の最も重要な役割は、生まれてから殺す野蛮な古代ギリシャ人たちと違って、我々は障害者がまず生まれてこないことに最善を尽くしているという正当化にあるとする
◆花田春兆「盲人を主とした障害者の活躍が無ければ、これまでの日本の芸能文化は、遥かに痩せ細った姿しか見せられなかった」

英国での障害学の芽生えはチェシャーホームなどの入所施設に対する抵抗にある。そして運動と研究が一体となり、連動している点が英国の障害学の大きな特徴
◆ポール・ハントはチェシャーホームの入居者として活動を行っていた。入所施設は「社会的な死」を意味するとして、地域で暮らす権利を求めた。その活動が「隔離に反対する身体障害者連盟」(UPIAS)の結成に結びつく
◆UPIASのインペアメントとディスアビリティの定義
 ・インペアメント:手足の一部または全部の欠損、身体に欠陥のある肢体、器官または機構を持っていること
 ・ディスアビリティ:身体的なインペアメントを持つ人のことを全くまたはほとんど考慮せず、したがって社会活動の主流から彼らを排除している今日の社会組織によって生み出された不利益または活動の制約
◆焦点はディスアビリティにあり、ディスアビリティとは、インペアメントを持つ人間に対する社会的抑圧の問題であるとする

◆英国での障害学の発展に大きな役割を果たしてきているのが、研究誌「ディスアビリティと社会」
◆同誌の編集委員フィンケルシュタインは、81年の障害者インターナショナル(DPI)の結成にも馳せ参じ、理論面で大きな貢献を行っている

◆フィンケルシュタインと並んで、英国の障害学の形成に大きな役割を果たしてきたのが、オリバーである。
◆オリバーは90年の「障害の政治学」で、ディスアビリティを社会的抑圧とするUPIASの主張を理論的に展開した
◆自らを排除する社会、まさに「個人的なことは社会的なこと」という視点から、オリバーの目は自らを排除する社会組織に向いた。従来の個人モデル、医学モデルから脱却し、社会モデルが成立した
◆社会モデルは障害者を通じて特にDPIの思想となり、国際政治の面でも反映されてきている

◆英国の障害学の最大の成果である社会モデルに対する疑問が、障害者であるフェミニストから提起されてくる。
◆モリス「社会モデルには、我々の身体的差異、身体的制約は完全に社会によってもたらされているとし、我々の身体の経験を否定する傾向がある」

◆社会モデルは身体を隠蔽する役割を果たしてきたし、インペアメントを無視する機能を務めた。インペアメントへの介入はディスアビリティの問題ではないとして放置する役割を果たしてきた
◆その反省がリーズ大のストーンによる優生的な中国の母子保健法に関する研究に見られる。ストーンは中国政府の政策が、アバーレイの言う「重要な区別」の実践であり、それは先進国での実態と重なるとする
◆法律により、生まれた後は殺されること、虐待されることは許されない。しかし、法律や社会によって奨励されないまでも出生前の中絶は問題ないとされる

◆現在の英国の障害学の最大の拠点はリーズ大学の社会学・社会政策学部である
◆米国の障害学の発展には学会であるSDSが大きな役割を果たしてきた
◆障害学の発展の仕方は、研究誌が充実している英国、学会を中心としている米国と違いはあるが、共通点は障害者自身である研究者が主要な役割を果たしている点にある
◆研究される側、対象だった障害者自身が障害学の推進には中心的な役割を果たすことが不可欠

◆人生の中の重要度を考えた際に、インペアメントを取り除くことよりも、他を優先させることは十分あり得る。そして、さらに進めて、障害者である自分を大切にする。
◆青い芝の会の横塚晃一は「障害者も同じ人間だと言う言葉」に反発を感じて、映画「さようならCP」製作を考えたと語っている
◆違いを優劣に還元してしまいがちな土壌の中で、「差異」、「違い」を主張することは確かに困難である。しかし、「同じ人間である」地点に到達する前に考えなければならないことがたくさんある。

◆日本でも障害学の蓄積はすでに十分にある。ただ障害学という軸が意識されてこなかっただけである


つづき
第2章ー1


優生学と人間社会 第2章の6

前回
第2章の5

第2章市野川先生のラストです。

◆本来、別物であった「変質」(退化)と「人種混血」がナチスの下で重ね合わされ、優生学が人種主義と結合する
ユダヤ人の優生学者もいる。リヒャルト・ゴルトシュミットは、自然界ではその存在さえ許されないはずの「低価値者」に文明社会が生殖を許しているのは誤りだと説き、32年のプロシア州断種法案の作成にも関わったが、彼にとって無念だったのは、ナチスが自分たちから優生学と断種法を横取りしたことだった


◆福音主義(プロテスタント)教会の対応
 ・1931年、社会事業団「インネレ・ミシィオンは、「生きるに値しない生命の抹消」や、優生学的な中絶は認められないが、優生学的な不妊手術については、本人が拒否していない限り、「宗教倫理的に正当化される」場合があるとの公式見解を表明した
 ・1932年プロシア州議会決議に異を唱え、心身に生涯をもつ人間も価値がある。同胞として気づかうことがキリスト者の使命であると再確認したが、逼迫する財政の下で障害者福祉を運営していくため、優生学を組み込むことは、不可避のものとして認識された
 ・19
33年の断種法に組み込まれた強制措置に対しても、その対象が断種法のあげる、病に限られるならば容認するという姿勢に

◆カトリック教会の反応
 ・1930年、ローマ教皇が回勅書を出す(一夫一婦制、家父長制、女性解放運動は誤り、両性の合意による禁欲以外の避妊の非難、母親の生命が危ない場合以外の中絶の禁止、不妊手術は一切認めない)
   ・当時のドイツにはナチスの断種法を正面から批判できたのはこれ以外ほとんど何もなかった   ・医師へのサボタージュなどを呼びかけ


1939年9月1日におきた3つのこと
 ・ドイツポーランド侵攻(戦争開始)
   ⇒シャルマイヤーやプレッツが恐れていたこと(第2章の3参照)
 ・遺伝病子孫予防法の省令改正。不妊手術、婚姻前検診は原則中止。
 ・同日付でヒトラーが安楽死計画を命じた文書も発出


◆1945年の敗戦まで、ドイツ国内及び占領地域では、施設で暮らす障害児や入院中の精神病患者などが、特殊な施設にいそうされ、そこで頃された。少なくとも7万人、一説には10数万人。
◆不妊手術という間接的なやり方ではなく、直接抹殺する。

◆優生学者たちは病人や障害者を殺害するという方法には反対していた
◆フリッツ・レンツ「いわゆる安楽死は、人種衛生学の本質的な手段として考慮の対象となることはまったくない」
◆レンツは、安楽死を批判しながら、低価値者とされた人々が生まれないようにするため(淘汰を出生前に移行させる)に、遺伝の仕組みを解明し、その技術を開発しようとする「優生学」の存在理由を守ろうとした。
◆殺害というかたちで淘汰することが許されてしまうのなら、優生学はその存在理由を失ってしまう


◆レンツは、優生学者としてただ一人、安楽死法制化の準備に加わった。しかし、その場でもレンツは、優生学の見地から安楽死を正当化することはなかった
◆あまり注目されないが、第一次大戦期にドイツ国内の公立病院では、実に7万人の精神病患者が餓死している
◆ますます減少していく生活物資から、まず最初にはじき出されたのは、入院中の精神病患者その他の社会的に最も弱い立場にいる人々だった
◆7万人とは、1939年以降の安楽死計画によって殺された精神病患者の数にほぼ匹敵する
◆指導的立場にあったレンツと同世代の医師たちは皆、第一次大戦中に病院や施設で何が起こったのかを十分、知っていたはず。
◆再び開始された戦争によって、同じ事態が引き起こされるのだとしたら?そのとき、積極的殺害という選択肢が、とりわけ医療関係者の脳裏に浮かんだとしても何ら不思議ではない

◆ナチズム期の強制不妊手術・安楽死計画の被害者に対する戦後補償実現のために尽力したドイツの精神科医、クラウス・ドゥルナーは、1939年以降の安楽死計画の背後にある心性を「死に至る憐れみ」という言葉で表現している
◆優生学の論理は安楽死計画のそれから、また安楽死計画の論理はホロコーストのそれから、それぞれ微妙に異なっている
◆安楽死計画の犠牲者にはユダヤ系のドイツ人も含まれていた。しかし、その犠牲者の多くが生粋のドイツ人だった







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2016年8月9日火曜日

2016年8月7日日曜日

優生学と人間社会 第2章の5

前回
第2章の4
市野川先生の続きです。

意思決定の二重構造、強制的同質化、帝国医務規程、遺伝病子孫予防法あたりがポイントですかね。

遺伝病子孫予防法は、後に日本の国民優生法が作られる時に大いに参考にされている法律で(松原洋子先生mp同本第5章、米本昌平先生の「遺伝管理社会」参照)、我が国にとってももの凄く関わりの深い法律です。
ちなみにwikの解説はいまいちなんで、本を読んでみてください。

っていうか、やっぱりあの事件があってからこの本の中古の値段が急激に上がってます。
先月くらいまでは2ケタだったのに。
うん、まず読むならこの本ですよ、この分野では。



◆世界恐慌は、大戦の痛手からようやく立ち直りかけたドイツにも大きな打撃を与えた。人種衛生学会が、1931年に採択した新しい指針は、早急に低価値者に対する自発的な不妊手術を可能にすべきだと訴えている
◆「治る見込みもない遺伝的欠陥者のために割かれる支出は、もはや遺伝的に健康な家系の者には総じて役立たないものとなっている。それゆえ、優生学に定位した福祉は今や必要不可欠なのである。」
◆1932年プロシア州議会は、福祉コストを削減できるような措置を早急に講ずる、という決議を採択。この決議にもとづいて、プロシア州保健省は同年断種法案を作成。州レベルでは片付かない刑法規定の問題もあって制定には至らず。
 ・対象:遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性てんかん、その他の遺伝病にかかっているもの、もしくは遺伝的遺伝子質の保因者
 ・不妊手術は本人同意にもとづいて実施
◆1933年1月にヒトラー政権発足。7月にドイツ初の断種法「遺伝病子孫予防法」が制定。(3月に「授権法」によって立法権を得ていたため議会の承認なしで制定)
 ・プロシア州断種法案に重度のアルコール依存症が追加
 ・本人の意志に反しても不妊手術を実施できる
◆ナチスだけではなく、強制処置を止むを得ないと考える者は、社民党内部にも相当数いた
◆原則はあくまでも個人の自己決定だが、法的な決定能力や同意能力が期待できないものについては、法定代理人や官医、施設長などの代理の同意や決定でよく、この場合には強制措置も認められる(他の国々にも広く見られた二重構造)
◆ナチスの断種法がターゲットにしたのは、法的な決定能力や同意能力が欠いているとされ、意志や権利を尊重すべき一人前の市民ではないとされた人々

◆強制的同質化:もろもろの組織や団体から自律性や決定権を奪い、すべてを帝国政府の、ヒトラーの管理統制下におくこと
◆医療においても強制的同質化が行われた
◆1934年、保健事業の統一化に関する法律。州および都市ごとに保健局を設置し、ナチス政府が中央集権的に統括。各州の判断から統一的な医療政策へ。
保健局の経費がすべて公費でまかなわれた。医師は患者からの報酬に全く依存せずに、医学的に”正しい”ことのみを遂行できた。(シャルマイヤーの望み通り)

◆1935年、帝国医務規定
は、「帝国医師会」の設立を促し、医師という職業身分の自立性を確立する医師たちのそうした要求を、ある意味実現したが、実体は、ドイツのすべての医師をナチス政府が管理統制するというものであり、ユダヤ人医師は締め出され、当初の目標だった医師団体の自律性も根こそぎ破壊された
医療プロフェッションそのものが自ら自律性を放棄し、国有化=強制的同質化された。
◆帝国医務規程
 ・個人の利益と民族全体のそれが対立する場合には、躊躇なく後者を優先した。
 ・健全な民族感情によって正当化される目的をまっとうするためには、そうした守秘義務は解除されると定めている
 ・断種法の定める遺伝病ならびに重度のアルコール依存症の患者に接した医師が、その患者に対する不妊手術を直接、間接に遺伝健康裁判所に申請しなかった場合、これを職務規定違反とし、医療活動の永久停止を含む処罰を科した
◆ナチズム期の36~40万件にのぼる不妊手術の脅威的な数字は、医師プロフェッションの国有化=強制的同質化があった

◆1933年11月、常習犯罪者取締法。ターゲットは精神病質者。
◆当時の刑法は心神喪失者の免責を規定。
◆常習犯罪者取締法は、刑法で免責される者(↑)施設で拘禁し、性犯罪者については去勢手術も認めた。この法律によって拘禁された人々に対しては、出所と引き換えに不妊手術を実施するケースもあった

1935年6月、遺伝病子孫予防法が改正ナチス政府は、母体保護の中絶と同時に、さらに優生学的理由による中絶を合法化し、33年の断種法で列挙された疾患のいずれかに該当する場合、その中絶を認めるようにした
◆条件は、本人の同意、妊娠6か月以内、妊娠女性の生命および健康を危険にさらす場合には禁止の3つ
◆断種法と同様、本人に同意能力がない場合、法定代理人もしくは保護者の代理同意でよいとしていた
◆1935年10月、婚姻健康法(正式名:ドイツ民族の遺伝的健康を守るための法律)。結核や性病、断種法に規定された遺伝病、あるいは精神障害などをもつ人びとの婚姻が禁止され、また、婚姻に際しては、これらの病気や障害のないことを証明する婚姻適正証明書を保健局からもらうことが、すべての者に義務化された。
◆一方、健康なドイツ人については、婚姻や出産に際する特別の貸付金制度や、多産の女性を讃える政策が推し進められ、避妊や中絶は以前よりもいっそう厳しく取り締まられるようになった


第2章の6






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2016年8月3日水曜日

優生学と人間社会 第2章の4 市野川容孝

前回

第2章の3


◆社民党内部でも第一次大戦の終結、ワイマール共和国の誕生とともに、生産手段の国有化という従来の主張に加えて、人間の国有化、つまり医療政策、人口政策の整備を、という声が徐々に高まって行った
◆1921年にゲルリッツで開催された党大会で、エルフルト綱領に代わる新しい綱領を採択。それに先立って新綱領にどのような医療政策、人口政策を組み込むべきかに関する検討委員会を発足。その首班がグロートヤーン(第2章の2参照)
◆グロートヤーン自身は優生学の必要性を訴えていたが、新綱領としては、社会保険制度や医療制度の充実を訴えるにとどめた。人口増大政策を優先させていた。
◆人口の量的増大よりも質の向上に重きを置く優生政策が、ドイツその他のヨーロッパ諸国で完全な支持をなかなか得られなかった一つの理由は、キリスト教の生命感と並んで出生率の低下であった
◆グロートヤーンは出生率や人口減少を危惧し、人口増大政策を推進するために、不妊手術その他の優生政策にブレーキをかけた

○アンドレアス・クナック(医師)
◆新綱領の検討委員会に加わり個人草案を提出(グロートヤーンの案に落ち着く)
◆人口の質の向上に定位した優生政策に積極的だった(ナチズム期に政治亡命)
○クナックの主張
◆健康な子供を作れるかどうか確定できるか、確固たる事実にもとづいて科学的に行うことができるケースが数多くある
 →精神的に低価値な資質、梅毒、そして慢性的なアルコール依存症のもたらす重い遺伝的欠陥
◆身体的にも精神的にも低価値な子供たちは、社会全体にっとて最も重い負担となっている
◆精神的にも道徳的にも低価値なものに対しては、強制措置がとられなければならない。なぜなら、彼らには啓蒙や説得など不可能だからである

◆不妊手術という言葉こそ出てこないが、アメリカの断種法はクナックにとっても一つの模範だった
◆クナックはマルクスの描いた理想社会と目標を転倒させ、障害や疾患を持つ個々人の必要よりも、社会全体の必要に応じた人間そのものの科学的な再生産の方を優先した

◆戸籍法改正は、ワイマール気に全国レベルで制定された唯一の優生立法。
◆1927年、性病撲滅法。性病にかかっていると知りながら性交渉をもったり、そのことを相手に知らせずに結婚するものに刑罰を科した
◆生殖を介して疾患が次世代に伝達されるという点では性病も遺伝病も代わりがないと考える優生学者にとって、この法律は優生学的にも大きな前進。シャルマイヤーの病歴記録証という提案はかなりの部分が実現した

◆戸籍法改正や性病撲滅法は、せいぜい婚姻に際して人々の優生意識を鼓舞するにとどまったが、優生意識をさらに強化するために、性と生殖の健康について既婚者や婚姻予定者に助言を与える相談所が各地で開設された
 ・ヒルシュフェルト:ベルリン大学の性科学研究所に設置
 ・母親保護同盟(ヘレーネ・シュテッカー、クナック):ハンブルクを皮切りに開設
 ・人種衛生学会:ミュンヘン、ハレ、ドレスデンで開設
◆相談所の大半は民営だったが、1926年2月にプロシア福祉省の条例により、ラント(州)内の市町村が公営で開設することが許可・奨励され、1930年までに200を超えた
◆ザクセン州の公営相談所は、優生学的な配慮ばかりでなく、ヤミの中絶をなくすためにも経済的理由を考慮して避妊等の家族計画が奨励
◆進歩的な相談所であればなおさら優生学に力が注がれていた

◆1923年5月に医師グスタフ・ビュータースが9項目からなる断種法案を、ザクセン州政府に提出
◆断種法案
 ・知的障害、生まれつきの視覚障害や聴覚障害をもつ子ども、もしくは初等義務教育についていけない子どもに対し、両親もしくは後見裁判所のお同意を得て、無料で不妊手術を実施すること
 ・視覚障害、聴覚障害をもって生まれた者、知的障害者、てんかん患者、精神病患者が公立施設に入所している場合、出所の条件として不妊手術を行う
 ・そういう人々が結婚する際には、公立施設に入所していなくても条件として不妊手術を課す
 ・性犯罪者は去勢手術を、父親が誰かわからない子供を2人以上産んでいる女性には不妊手術を各々可能にする
・犯罪者に対しては、不妊手術・去勢手術を減刑の条件として加味する
◆州政府は提案を受け、不妊手術を可能にする刑法改革案を、24年6月に帝国政府に提出
◆トゥーリンゲン州の経済省も23年7月、帝国内務省に対して、本人同意にもとづく優生学的な不妊手術を合法化するよう文書で要請
◆プロシア州政府は検討部会を発足させたが、ボンヘッファーを中心に作成された部会答申は、優生学の必要性を認めつつも、まず遺伝のメカニズムを確定することが先決で、ビュータースの提案は時期尚早と論じる
◆ビュータースは同様の断種法案を、単独でドイツ帝国議会および帝国政府に提出したが、医学界でもまだ合意を得られていないものとして斥けられた

続き
2章の5









2016年8月2日火曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第6章

前回
その5

ラストです!

第6章
◆場の中にいるということの中には、ある安定性がある。それは一時的なものではないし、あれこれの特定の状況に飲み関連しているものでもない
◆一般的な安定性というものは、かなりのストレスに対抗し得るし、専心と同じように、困難を克服することによって強化される
◆この安定性を基本的確実と表現しても、それで真実をつかんだとか確かな知識を持っているといえるわけではない
◆今あることやこれから起こることについて、絶対的保証を得たい気持や、それらについて確信したい気持ちからむしろ卒業することを、基本的確実は求める
◆基本的確実というのは、危険をはらんだこの世界で、かきみだされず、平成を保っていこうと禁欲的な決意をするような人の内側には存在し得ない
◆他者から必要とされていることが必要であり、他者が私を必要としていることと、私にとってそういう他者が必要であることとは密接に関係している
◆内面的なものと外面的なものの間に大きな差が出てきて、それが重大なものになってくると、私の行動は統一的にならない
◆私たちは基本的確実性を確立するためにケアするのではなく、ケアを中心にすえた生がこの安定性を持つ

◆現在生きている状態で十分であるということは、まさしく、生きることがある時点で完成するものではないという性格を物語っている
◆私たちの生が根本的に否定されたり、生きる過程が十分でないとされたりする経験をいくつか積むと、今度は逆にその経験が、では十分であるとは一体いかなる常態かということを示してくれる
◆もし私たちが偽ってほんとうの自分の姿を見せず、自分以外のものに見せかけようとすれば、やはり生きることの過程は、私たちにとって十分なものとは感じられない
◆ケアとは、それを実践することによって絶えず新しくなり、発展していく

〇了解性
◆了解性とは、私の生活に関連しているものは何か、私が何のために生きているのか、いったい私は何者なのか、何をしようとしているのか、これらを抽象的なかたちではなく、毎日の実生活の中で理解していくこと
◆了解性は、私たちが何かあるものに帰属しており、かつ、何者かから、あるいは誰かから自分たちが特別に必要とされているという感じをともなっている
◆了解性は、自分自身によって理解されケアされているという私自身の感じと密接に結びついている
◆了解性が、この世界の中で心を安んじている状態を示すという意味において、私たちは物事を支配したり、説明したり、評価したりすることによってではなく、まさにケアすることとケアされることをとおして、はじめて究極的に心を安んじることができる
◆了解性は、存在の持つはかり知れない性格を排除するのではなく、むしろ私たちがもっとそれに気づくようにする

◆生きる中での単純化というものは、生を浅薄にするよりも、成長させ意味づける働きを持つ”場の中にいる”こととともに生じてくる
◆自律ということは、私が自己の生の意味を生きることである。それは、私が生きている社会的・物質的条件によって設定されたある範囲の中で、私が自分の思うままに生きることを指すからである。
◆自分自身の生を生きるためには、私はケアすることと自分の生に対し責任を持つこととをとおして、私の生を自分自身のものとしなければならない
◆そもそも私は、最初から自律的であるわけではない。自律とは、成熟とか得がたい友情の深まりと同じく、ひとつの達成なのである
◆あるものに対し深く全一的に自分を投入することがなければ、人は自分自身であることはできない。私が自己の生の意味を生きるといえるのも、私がある対象に依存していればこそである
◆むしろ他から必要とされたり、他に身をゆだねるような何かがあるときに、そちらの方こそ自由だと感じる

◆私の方向性というものは、他者の成長によって大体のところ決定されているのではあろうが、私はほかならぬ私自身を、私の行為を始動する者、また私自身の人生に対し責任を持つものとして感じている
◆方向性というのは、私の生活の中から自然と姿を現すものであり、私に対し、外から前もって決められていたり、強制されたりするものではない
◆自分以外の他者の成長と幸福を、私自身のそれと同一化するからこそ、自己の拡張というものがある
◆退屈な状態においては、現在というものはあたかも砂漠のようであり、成長するものは何もなく、貴重なものもない。
◆自立は自己理解を前提とする。その理解がないと、結局、自分が自分の障害となってしまい、どうどうめぐりするしかない
◆”場の中にいる”ことにより、私は人生に十分没頭できると同時に、私たちの社会に広く存在している成長を妨げるような生き方から自由でいられる

◆私が他者から受け取るのは、自分が与えているから
◆感謝というものは、私が受けた恩恵に対して感謝の気持が表現されるまでは、まだ不完全な状態にある
◆自己の生の意味を生きるということの根底的な性質は、くしくも、生の尽きせぬ深みを限りなく知ることに通じている



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