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2018年2月10日土曜日

飛蚊症で目がしんどいので、kindle unlimited の無料体験を始めてみた。

飛蚊症の関係で、本を読むのがしんどくなったので、
情報をインプットするために、
kindleをiPhoneのvoiceover機能で聞いています。

そこで、kindle unlimitedというkindle本の読み放題サービスの、
30日無料体験登録をしてみました。



率直な感想。
まだ本のラインナップが全然充実していない。

どこの誰か分からない人が自費出版したような本が多すぎる。。。
これで月980円はどうなんだろうな。

ただ、いい点としては古典が非常に充実していること。
哲学書とか、シェイクスピアとか、そういう青空文庫的なものは非常に充実しています。
ただ、普通に買っても99円とかだから、あまり意味がないかも。

それだったら、普通に読みたいkindle本を買った方がいいかもしれない。
とりあえず無料体験はして見る価値アリ。
30日間でおそらく。。。

kindle unlimitedの無料体験で読んだ本。
1週間時点。
これだけ読めりゃまあ無料体験の価値はありますね。

次はamazon audibule(本の音声朗読サービス)の無料体験じゃ!




↑このシリーズは色々古典を読めます。

更に読んだら追加します。


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2017年12月13日水曜日

人間の経済 宇沢 弘文

レビューでの評価も高いですが、宇沢先生の入門書として最適のようです。
考えのエッセンスがまとまっています。

宇沢先生の本色々読んだら真っ当になれそうな気がする。


本文より、
◆何とかしてに経済学が人間のための学問であるようにと願い、様々な努力をしてきました。
 結局、あまりものにならないようですが、その過程で私は1つ大事なことに気が付きました。それは、大切なものは決してお金に変えてはいけない、ということです。
 人間の生涯において大きな悲劇は、大切なものを権力に奪い取られてしまう、あるいは追い詰められてお金に変えなければならなくなることです。
◆教育も医療も、それぞれの職業的専門家が職業的なディシプリン(規範)に基づいて、そして社会の全ての人たちが幸福になれることを願って、職業的な営為に従事することだ

真っ当な人間になりたい。
そう言いつつ仮想通貨のチャートを眺める。
人間だもの。




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2017年9月23日土曜日

未来に先回りする思考法 佐藤 航陽

この本ヤバい。以上。

◆インターネットというテクノロジーが与える影響は、すでに社会の表層から核心へと浸透しつつあり、ついにその作り手である人間そのものにまで及びつつある。
◆今進行しているのは、携帯やコンピューターの再定義ではありません。「人間の再定義」です。



そしたらこれ。
ヤバいだろ新時代。
https://www.gizmodo.jp/2017/09/tgs-2017-sony.html

まずAIに職を奪われる。もしくはサイボーグ化していく(トランスヒューマニズム)。

サイボーグ化を拒否し、しかも自分で稼ぎ出す力がない人間は、ベーシック・インカムという名のもと、何かと引き換えに企業に養われる。

意識は辛い現実から、理想のVR空間へさようなら。

肉体は不要になるし、効率も悪いのでさようなら。

ひぃぃ。
私にはテクノロジーの発展は、
そんな未来が見えてしまった。

この本マジで端々に、そういうこと匂わせてきてる。
「人間の再定義です」

都市伝説みたいな内容ではなく、
現実のテクノロジーの発展と未来の方向性を示してるんだけど、
そんな未来が見えてしまう。手塚先生~~!泣

やりすぎコージーの関さんとか好きな人はおすすめ。
イケハヤ氏推奨。

kindle版安くなった。

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2017年3月24日金曜日

青木新門 納棺夫日記 その4 ラスト

前回
その3

◆<死>についていくら生者が頭で考えても似て非なる死のイメージを生むだけなのである。似て非なる死の概念は、現実の死に直面したとき何の役にも立たない概念となる。
◆問題なのは、どこに視点を置いて死体と対峙していたかということ。問題は、死や死体や死者を前にして、己の生死の問題として、どこまで真摯に関わっているかということである
◆体で悟った現場の知を、近代思想を身に付けた世に言う知識人たちは、理性で理解しようとするから永遠に心の理解が得られないだけなのである

◆宗教の信じるという行為の陥りやすい欠陥は、信者の科学的知識の範囲を超えた事象を全て己の信じる宗教のせいにしてしまうところにあるようだ。だから熱心な信者にも、科学の進歩に対応した善知識の聴聞が常に必要とされてくる

◆ケビン・カーターの写真
















◆昔、瞑想と禁欲の世界に生きる行者たちの多くは、死期をさとると断食の行に入っていったそうである。断食というのは、その字の通り食を断つことであるが、最初は五穀を断って木の実、木の根のみを食べる木食の行から入り、やがて葉先の露のみの完全な断食へと入ってゆく
◆「根源的現象に出会うと、感覚的な人たちは驚嘆の中へ逃げ込むし、知性的な人たちは最も高貴なものを最も卑俗なものと結びつけて分かったと思うとする」ゲーテ

◆りんごを分析し詳しく解説できても、りんごを食べたことがなければ、その味は分らない。たとえ分かったとしても、理屈では伝わらない。しかし世に言うエリートはしたり顔で伝えようとするのである
◆生や死は、現場の事実であって正にりんごを食べることなのである

◆詐欺の本質は成りきる才能だから、簡単に悟った尊師に変身し、事故の欲望は仏の本願とすりかえられ、何をやっても仏や神の意思であって自分の責任ではなくなってしまう
◆こうした宗教が出てくるのも、既存の宗教側にも、多くの原因がある。その最大の要因は、「悟り」を説きながら悟りに至る努力もしない聖道門の僧職者たちや「信」を説きながら真に阿弥陀を信じようともしない浄土門の僧侶たちが、教条的に「信をとれ」と言ったりしているところに起因する
◆「なぜ、修行者たちは同一のことを語らないのか。まことに真実はただ一つであって、第二の真実というものはない。だからその真実を知ったものは争わない」スッタニパータ(原始仏典)
◆寿命が延びたのは確かだが、その裏側には「生の意味」の喪失が、暗く張り付いていた
◆死に背を向けてゆく生の追求は、さらなる生の喪失なのであった





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2017年3月22日水曜日

青木新門 納棺夫日記 その3

前回
その2

◆あらゆる宗教の教祖に共通することは、その生涯ある時点において、<ひかり>との出合いがあることである。
◆今日の既存宗教教団などに見られる混迷は、生き方の会議ばかりが忙しく、行き先が明確でないところに問題があるようだ。イメージが、はっきりしていないのだ。

◆あらゆるものへ感謝があふれ出る現象を、回向のことであると言ったが、この回向こそが、浄土真宗の根幹をなす思想なのである
◆親鸞は、「教行信証」の冒頭に、
 謹んで浄土真宗を按ずるに二種の回向あり
 一つには往相、二つには還相なり
 と、浄土真宗の最大の特徴は、二種の回向であると書き出している
◆親鸞以前までの回向は、自分の積んだ善根を仏の方へさしむけることであったが、親鸞は逆に、仏の方から衆生の方へ向かうのが回向であるとした。
◆仏派の感謝が往相回向で、その仏からの慈悲が還相思考であるとし、この二種の回向がおのずから同時にはたらく現象を、光如来の本願ととらえた
◆親鸞の思想の大きな特徴の一つは、光如来に出合って<死即仏>となること。如来によって死即仏となるから、引導もいらないし、位牌も、手甲脚絆も、六文銭も、杖もいらない。三途の川も閻魔大王も関係ないから、追善供養も必要ない。だから真宗では追善供養と言わないで、法要とか報恩講といっている。
◆しかし、中有まで完全に否定したのではない。
◆我が国のほとんどの宗教では人が死んでも霊魂がさまようことが前提となっている。しかし、親鸞は何日間も、何カ月間も、さ迷う霊魂に関しては完全に否定していた
◆さんたんたる景色(現世)を横目で見ながら、すきとおる空(浄土)へと直行するわけで、死はどこにもない。そこには死もないから<往生>という。死さえなかった。あったのは大涅槃だけであった。
◆釈迦の説いた仏教の教理は、すべて実践との関係においてのみ意義が認められているのであって、実践に関係の無い形而上学の問題には、釈迦は答えられていない

◆親鸞の阿弥陀信仰は、どのような者でも<無碍なる不可思議な光>に必ず出合えるという絶対の確信からきている。そして中途半端な修行など、当時の庶民の生活苦よりお粗末であることを、比叡山の山中で二十年もいやというほど見せつけられてきたのである
◆釈迦のような苦行をするならともかく、中途半端な修行の途上にいながら、さも覚者のような顔をして成仏の引導まで行っている。このことは、八百年前の親鸞の時代も今日も、さして変わりなさそうである

◆詩人たちは一様に、物への執着がなく、そのくせ力もないのに人への思いやりや優しさが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋で美しいものにあこがれながら、愛欲や酒に醜く溺れ、死を見つめているわりに、以上に生に執着したりしている
◆生を維持するために他の生を犠牲にして生を保ってゆくしかない。そんな中で、菩薩が人間の肉体を備えたままその生を維持してゆくこと自体不可能なことである

◆源信、法然、明恵、道元、一遍、親鸞、これら高僧たちはおしなべて、十歳未満で父母との別離に出会っている。蓮如も、幼い日に母との別離があった。こうした幼い日の悲しみの光は、いつまでも残り、その人生に大きな影響を与えてゆく

◆今日の科学は、哲学や宗教をのり越えようとしている。とは言っても現在のところ、哲学や宗教が停滞しているためそのように見えるだけで、実際は科学でわかった範囲など微々たるもので、のり越えるどころではない
◆宗教がどれくらい科学の立証に耐えるかによって、今後の宗教が歴史に残るかどうか決まるかもしれない
◆<死>は医者が見つめ、<死体>は葬儀屋が見つめ、<死者>は愛する人が見つめ、僧侶は<死も死体も死者も>なるべく見ないようにして、お布施を数えているといった現状があるかぎり、今日の宗教に何かを期待する方が無理と言えよう。
◆宗教が現場の死生感を説くことができなくなったとき、その宗教は生気が失われ、滅びへ向かうのは当然である
◆死の不安におののく末期患者に安心を与えることができるのは、その患者より死に近いところに立たない限り、役に立たないということになる。たとえ善意の優しい言葉であっても、末期患者にはかえって負担となる場合が多い

つづき
その4




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2017年3月20日月曜日

青木新門 納棺夫日記 その2

前回
その1

◆人は誰もが、死ぬ時には美しく死にたいと思っている。しかし美しく死ぬとはどのようなことかはっきりしない。
◆「ところで君、どう思うかね。今、しらゆり会(献体登録の会)に登録されている人の50パーセントはクリスチャンだよ、信徒1パーセントにも満たないこの地でだよ。<われ閉眼せば賀茂川に入れて魚にあたうべし>と言ったのは親鸞だろう。その親鸞の浄土真宗の信徒が80パーセントの北陸でだよ」

◆最近中国でこんな事件があったと、新聞に載っていた。中国の農村で、当局が土葬を禁止し、火葬にするとのお触れを出したところ、火葬されれば天国にいけなくなると、老人が次々に自殺した事件である
◆三島の死は社会から疎外された近代知識人特有の死であると言える。実際、自殺ほど社会に迷惑をかける死に方はない。それは、自殺という行為が共同社会からの疎外された者の孤独な解決方法に起因しているからであろう
◆わが国経済の高度成長とともに、枯れ枝のような死体は見られなくなっていた。今日、事故死や自殺以外は、ほとんど病院死亡である。昔は口から食べ物がとれない状態になったら、枯れ枝のようにやせ細ってゆくしかなかったが、今では点滴で栄養が補給されるため、以前のようにやせ細った状態にならない。

◆死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぼっちで死と対峙するようにセットされる。しかし、結局は死について思うことも、誰かにアドバイスを受けることもなく、死を迎えることとなる
◆集中治療室などへ入れられれば、面会も許されないから「がんばって」もないが、無数のゴム管やコードで機器や計器につながれ、死を受け入れて光の世界に彷徨しようとすると、ナースセンターの監視計器にすぐ感知され、バタバタと走ってきた看護婦や医師によって注射をうたれたり、頬をパタパタ叩かれたりするのである
◆特に我々が生死を云々する場合、<生>にスタンスを置いての一方的な発言であって、<死>にスタンスを置いての発言はありえない。しかし、釈迦や親鸞は、生死を超えたところから言葉を発している
◆視点の移動をしないで、<生>にだけ立脚して、いくら<死>のことを思いめぐらしても、それは推論から仮説でしかないであろう。死後の世界へ旅立つことが、白い巡礼の衣装をまとい、杖をもち、六文銭を首にかけ三途の川を渡ることだというような発想は、生の思考の延長上から生まれたものにほかならない
◆理論物理学などでは、仮説の新理論が実証確認できなければ歴史から抹殺されてしまうが、死後の世界の仮説は、奇跡に頼るしか実証方法がないため、あらゆる仮説が生き残り、巧妙に組み立てられた仮説や神話などは、何千年も世にはびこることとなる。

◆会葬者も、遺体に合掌したり、遺影に手を合わせたり、祭壇や霊柩車に合掌したり、火葬場の煙突の煙にまでに合掌したりしている。ところが、肝心のご本尊にはあまり手を合わせていない。僧侶の唱えるお経は、何を言っているのか分らないし、死者がどこへ行ったか分からないから、思いつくまま手当たり次第手を合わせている
◆葬礼儀式と言う仕事に携わって困惑し驚いたことは、一件深い意味をもつように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知ったことである。迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀式として形式化できたものだと思うほどである
◆今日の仏教装儀式に見られる姿は、釈迦や親鸞の思いとは程遠い物であろう。極端に言えば、アニミズムと死体崇拝という原始宗教と変わらない内容を、表向きだけは現代的に行っていると言っても言い過ぎではない

続き
その3



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2017年3月16日木曜日

青木新門 納棺夫日記 その1

知ってる人は知ってると思うが、
本木雅弘主演で映画化された「おくりびと」の原作の本である。

私も「おくりびと」は昔見たことがあったので、
その原作小説なのかなぁという程度で読み始めた。

が、全然違った。

本編は全3章、文庫にして140ページという手の伸びやすいサイズ。
1章は確かに「おくりびと」の原作となるようなエッセイだった。

この話自体、私はそういう職業の人にスポットライトを当てた創作話だと思っていたが、
実際は作家であるこの作者自身が、経営していた店が潰れて、
仕事を探し、葬儀屋へ就職した経験を基にしたエッセイだった。

問題は第2章以降である。

そもそも早稲田を中退して文学の道を目指していた青木氏。
目の付け所も考える力も素養がある。

そんな氏が仕事で日々、死と向き合う。
大概の人はそこで目を逸らす。
そこにある亡骸をモノのように考え、慣れようとする。

ただ、作者は見つめた。
「我々はどこへ行くのか?」
そして深く深く悩み、考察していく。

今回は第1章です。


◆湯灌というのは、長い間寝たきりの状態で死亡した死者を送り出すとき、せめてきれいな体にしてあげようと、全身を洗い清めた風習である。今日では、だんだん病院脂肪が多くなり、アルコールで吹くという方式に変わってきている。
◆葬儀屋の社会的地位は最低であるし、納棺夫や火葬夫となると、死や死体が忌み嫌われるように嫌われているのが現状である
◆職業に貴賤はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実がある限り、納棺夫や火葬夫はみじめである
◆死をタブー視する社会通念を云々していながら、自分自身その社会通念の延長線上にいることに気づいていなかった。社会通念を変えたければ、自分の心を変えればいいのだ。心が変われば、行動が変わる
◆自分の職業を卑下し、携わっているそのことに劣等感を抱きながら、金だけにこだわる姿勢からは、職業の社会的地位など望むべきもない。それでいて、社会から白い目で見られることを社会の所為にし、社会を恨んだりしている。己の携わっている仕事の本質から目をそらして、その仕事が成ったり、人から信頼される職業となるはずがない

◆「ケガレ」の内容は、既に古代の「延喜式」の中に細かく規定されている。その中でも、特に死穢(しえ)と血穢(けつえ)は穢れの最もたるものとされている
◆死穢とは、死や死者を不浄なものとしてとらえ、死や死者に纏わる一切のものは不浄なものとされる。また血穢は、怪我などの出血の「けが」の意味もあるが、女の出血(月経)の穢れが強調され、やがて女性そのものが穢れた存在とされてゆく
◆糞尿も汚穢(おわい)ということで穢れの対象であった
◆どうしても隔離したり遠ざけたりできない場合に、不浄や穢れを浄化する儀式としてオハライやキヨメを行い、一瞬にしてハレに転換する
◆なぜキヨメに塩なのかという問いに「古事記」に出てくる神話によるとする説もある

◆西洋の思想では、生か死であって<生死>というとらえ方はない。その点東洋の思想、特に仏教は、生死を一体としてとらえてきた
◆死の占める割合が多い時代では、死は多く語られ、時には美化される傾向にあり、今日のように日常生活の中にも思想の中にも死が見当たらないような生の時代には、死は敗北であり悪であるとする傾向になる。
◆既存の宗教は、時代の変化についていけないようである。人生の四苦である生・老・病・死を解決することが本来の目的であったはずの仏教が、死後の葬式や法要にスタンスを移し、目的を見失ったまま教条的な説教を繰り返しているというありさまである。

つづき
その2




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2017年1月18日水曜日

人間における勝負の研究 米長邦雄 7 ラスト


前回
その6
ラストです!!

◆私利私欲、私情というものは人間にはつきもの。これをいっさい捨てろというのは、「男らしくあれ」ということではなく「神様になれ」ということになってしまう
◆情と理性とはまったく相反するものではないけれど、その二つの対立があった場合には、まず自分の情を捨て、他の人の情と理性の両面から、納得のいく方法を選べる人が男らしい男

◆金銭だけの問題でいうと、お金はできるだけ自分のものにして、他人にやらないほうがいいに決まっている。けれども、男というのは貸し方に回るか、借り方に回るかということが、ひじょうに大事なこと
◆ある程度のお金を男は持たねば、男らしい生き方も、なかなかままならない。しかし、何も大金持ちにならなくても、ほんのささやかなゆとりがありさえすれば、貸し方に回れるはず。

◆男は、自分個人のことでは泣き寝入りというと、誤解があるかもしれないが、とにかく、どこまで我慢できるかが一つの男らしさの指標になるはず
◆男というのは、たいてい夜遅く帰るという修正を持っている。少なくとも、時には午前様となるもの。その場合、必ず起きて待っているというのは、立派な女房ではあるかもしれないが、いい女とは言えないと思う
◆男が遅く帰るのには、二つのケースがあって、一つは仕事で遅くなる場合、もう一つは遊んで遅くなる場合。この二つのケースを判別できる女はいい女

◆目標があって、それを達成したとする。しかし家庭の方はないがしろにしていたり、遊びは全然しないというのでは、まるで片手落ち
◆世の中に真実が一つしかない。人間のあるべき姿は一つしかないと考えるのはおかしい。

◆母親ができる一番よい教育は、子供の前では父親を尊敬すること。「うちのお父さんは偉い」と、それだけでいい
◆子どもの教育で一番大切なのは何かというと、集中力をつけてやることに尽きる。
◆「お前は一流になる」「お前は大物の器だ」と言って励ましてやり、子供が自分でもそう思い込んだら、こまごまとした目先のことで、いろいろ注意する必要はなくなります。そういう自覚は、おのずと自らを律するものなのです





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2017年1月12日木曜日

人間における勝負の研究 米長邦雄 6

前回
その5

◆不利になってもチャンスは必ず来るもの。したがって、そのチャンスが来るということを念じながら、じっと様子をうかがっているのが正解
◆形勢を逆転するためには、実力が伴わないとむずかしい。相手が間違えた時に、それを確実に咎められるかどうかが、ウデの見せどころになる
◆不利な時に騒ぎ立てるのが一番まずい。次にまずいのは、形勢が悪いのに、ただじっとうなだれていることで、これではそのまま終わりということになる。一番いいのは、じっとしていても、その姿勢が反撃のためのエネルギーを貯えている形。それが「勢い」になる

◆あくまで、歩の動きは王様の都合で決まる。逆に王様のほうから言えば、一歩の動かし違い、一歩の損が、最終的に自分の運命を左右することを知っておくべき
◆悪手を連続すると、取り返しがつかなくなる。だから、一度ミスをしたら引き返せばよいのですが、人間というのは一回ミスをすると、引き返せなくなる。ミスしたぶんを、先を急ぐことで取り返そうとするから
◆プラスからマイナスに転じたことで頭に血がカーッと上ってしまう。そういう時に、私はトイレに行くとかして、外の景色を見るとかして、気を鎮めます。それから時間をかけて読めば、優勢とか不利だとかいっても、特にどうという決定的な差はないことに気が付く

◆私は負けてくると、やたら遊びほうける。そして、それが一番いい薬だと思っている。勝っているときには、その波を長く持続させようと思って、大切に大切にいく
◆カンが狂ったときの一番いい手当は、自分のベストの状態の感覚を自分に思い起こさせるというあ、自分の目にそういうものを見させてやること。具体的には、買った将棋を並べる。それも強い棋士と戦って買った将棋だけを、次から次へとたくさん並べる
◆将棋だけに夢中で専念していられればいいのですが、いろいろな人と会わなければならないし、そのことから、よかれ悪しかれ将棋への影響を受ける。その人との付合いが私の将棋にマイナスになると思ったら、断乎、付合いを止める

◆夫婦というのは、別れないかぎり運命をともにすると考えていい。ですから、私が勝つか負けるかで一番影響を受けるのは女房です。その次は誰かというと、普通は、たいてい母親です。
◆こちらが神経を使わねばならない人に会うのは、不調の時はよくありません。また初対面の偉い人と会うのも、よくない。

◆将棋の勉強は一人でする方がよい。二人以上で検討会をするのが、現在、流行っているようですが、私に言わせれば、あれは研究の時間ではない。ただ将棋に触っている時間があって、プロ棋士にとって、そういう時間は質的にはゼロ
◆女性と一緒にいると男はどうしても見栄というやつに動かされてしまう。そして、勝負に一番まずいのは、この見栄を張ること
◆名人戦のような大きな勝負をやっている間は、世のため人のためというとカッコよすぎるかもしれませんが、とにかく私利私欲とは無縁の仕事しか引き受けない。そういう時期には、目先の個人的な利益よりも、もっと大きな視野の判断基準で行動する。そのほうが長い目で見た時に、結局は「トク」をする

◆ごく当たり前の方法だが、大事なのは一日一日を今日は何のための日であるか、はっきり意識して過ごすこと。
◆遊びは遊び、と区別しなければいけない。聖書の"カエサルのものはカエサルに返せ"という言葉ではないが、遊びで儲けたお金は遊びに使うべし、というのが基本的な考え方

つづき
その7




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2017年1月7日土曜日

人間における勝負の研究 米長邦雄 5

前回
その4

◆この局面では、最善手ではないけれど、状況によっては、新手としての価値を発揮するという場合がある。
◆実戦においては、常に時間的制約があるわけで、その制約を自分に有利に使うことも重要。

◆強い人ほど、形成の差の見分けを早い局面に置く。強くなれば強くなるほど、そのへんの読みはどんどん遡って前に来る
◆将棋というのは、必ず途中からとんでもないことが起こって、わけがわからない状態になるようにっているもの。序盤の研究だけでずっと見通せるつもりでいる人がいるが、それは夢物語
◆この局面ではこの手でなくてはならない、という研究の仕方は頭を硬直化させる、と私は思うのです。硬直化すると、進歩や創造はありえない

◆私は、難局になると、相手の側に立って考え、一番むずかしい手、一番結論の出しにくい手を指して、相手に手を渡すようにしています。手が広くて、わからなくなるような局面に導いていく
◆強い相手は、こちらが手を渡すと、さらにむずかしい局面になるように指し返してくる。そういう時にどう指せばよいのかというと、局面ができるだけ単純になるように持っていく。自分より強そうな人と指す場合は、できるだげ急戦で、手数の短くなる将棋にするのが、勝利へのコツ

◆実戦というのは、まず"勝つ"ことが目的。そして、私たちプロが勝つためにまず重視するのは、読みを省略する事。将棋が強い人ほど、省ける。
◆ある程度まで読んだら、今度は、相手が一番イヤがりそうな手を指すとか、目下の形勢は悪くても、とりあえず攻め続けておいた方が、あとあとよいだろうと攻めの手を放つとか、局面を混乱に導く手を指して、流れを見るとか、いろいろ、相手や局面によって指し分けていく
◆決定的に負けるとすればどこなのか、ということだけは、絶対に見逃してはいけない
◆大雑把でもいい、というのは、わずかに不利になるかもしれないが、この程度での不利にとどまれるのならば、長い目で見れば大丈夫、決定的にこちらが悪くなって、相手を撥ね返せなくなるようなことには至らない、という読みの裏付けがあるということ

◆これまでに何度も指されたようなパターン化した将棋になると、弱い人でもパターン通り指せば勝てる可能性が高くなります。つまり、番狂わせが出やすくなるのです。
◆形勢判断が正しくて、一つの局面を正しく把握していれば、飛車でも角でも切り捨てていって寄せ切れる。そういう局面ならば、一番最初に"この王様は寄る"と第一感でピンとくるもの
◆無心というような、自分の感情の入らない行き方が、なんでおもしろいのか。「オレはこうしたいんだ、こうするんだ」という、いわば、娑婆気の強い、悟りなしの生き方で、ずっと生きてきたし、これからも、それでいいのではないか、という気がしています

つづき
その6





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