その3
◆<死>についていくら生者が頭で考えても似て非なる死のイメージを生むだけなのである。似て非なる死の概念は、現実の死に直面したとき何の役にも立たない概念となる。
◆問題なのは、どこに視点を置いて死体と対峙していたかということ。問題は、死や死体や死者を前にして、己の生死の問題として、どこまで真摯に関わっているかということである
◆体で悟った現場の知を、近代思想を身に付けた世に言う知識人たちは、理性で理解しようとするから永遠に心の理解が得られないだけなのである
◆宗教の信じるという行為の陥りやすい欠陥は、信者の科学的知識の範囲を超えた事象を全て己の信じる宗教のせいにしてしまうところにあるようだ。だから熱心な信者にも、科学の進歩に対応した善知識の聴聞が常に必要とされてくる
◆ケビン・カーターの写真
◆昔、瞑想と禁欲の世界に生きる行者たちの多くは、死期をさとると断食の行に入っていったそうである。断食というのは、その字の通り食を断つことであるが、最初は五穀を断って木の実、木の根のみを食べる木食の行から入り、やがて葉先の露のみの完全な断食へと入ってゆく
◆「根源的現象に出会うと、感覚的な人たちは驚嘆の中へ逃げ込むし、知性的な人たちは最も高貴なものを最も卑俗なものと結びつけて分かったと思うとする」ゲーテ
◆りんごを分析し詳しく解説できても、りんごを食べたことがなければ、その味は分らない。たとえ分かったとしても、理屈では伝わらない。しかし世に言うエリートはしたり顔で伝えようとするのである
◆生や死は、現場の事実であって正にりんごを食べることなのである
◆詐欺の本質は成りきる才能だから、簡単に悟った尊師に変身し、事故の欲望は仏の本願とすりかえられ、何をやっても仏や神の意思であって自分の責任ではなくなってしまう
◆こうした宗教が出てくるのも、既存の宗教側にも、多くの原因がある。その最大の要因は、「悟り」を説きながら悟りに至る努力もしない聖道門の僧職者たちや「信」を説きながら真に阿弥陀を信じようともしない浄土門の僧侶たちが、教条的に「信をとれ」と言ったりしているところに起因する
◆「なぜ、修行者たちは同一のことを語らないのか。まことに真実はただ一つであって、第二の真実というものはない。だからその真実を知ったものは争わない」スッタニパータ(原始仏典)
◆寿命が延びたのは確かだが、その裏側には「生の意味」の喪失が、暗く張り付いていた
◆死に背を向けてゆく生の追求は、さらなる生の喪失なのであった
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