2017年3月20日月曜日

青木新門 納棺夫日記 その2

前回
その1

◆人は誰もが、死ぬ時には美しく死にたいと思っている。しかし美しく死ぬとはどのようなことかはっきりしない。
◆「ところで君、どう思うかね。今、しらゆり会(献体登録の会)に登録されている人の50パーセントはクリスチャンだよ、信徒1パーセントにも満たないこの地でだよ。<われ閉眼せば賀茂川に入れて魚にあたうべし>と言ったのは親鸞だろう。その親鸞の浄土真宗の信徒が80パーセントの北陸でだよ」

◆最近中国でこんな事件があったと、新聞に載っていた。中国の農村で、当局が土葬を禁止し、火葬にするとのお触れを出したところ、火葬されれば天国にいけなくなると、老人が次々に自殺した事件である
◆三島の死は社会から疎外された近代知識人特有の死であると言える。実際、自殺ほど社会に迷惑をかける死に方はない。それは、自殺という行為が共同社会からの疎外された者の孤独な解決方法に起因しているからであろう
◆わが国経済の高度成長とともに、枯れ枝のような死体は見られなくなっていた。今日、事故死や自殺以外は、ほとんど病院死亡である。昔は口から食べ物がとれない状態になったら、枯れ枝のようにやせ細ってゆくしかなかったが、今では点滴で栄養が補給されるため、以前のようにやせ細った状態にならない。

◆死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぼっちで死と対峙するようにセットされる。しかし、結局は死について思うことも、誰かにアドバイスを受けることもなく、死を迎えることとなる
◆集中治療室などへ入れられれば、面会も許されないから「がんばって」もないが、無数のゴム管やコードで機器や計器につながれ、死を受け入れて光の世界に彷徨しようとすると、ナースセンターの監視計器にすぐ感知され、バタバタと走ってきた看護婦や医師によって注射をうたれたり、頬をパタパタ叩かれたりするのである
◆特に我々が生死を云々する場合、<生>にスタンスを置いての一方的な発言であって、<死>にスタンスを置いての発言はありえない。しかし、釈迦や親鸞は、生死を超えたところから言葉を発している
◆視点の移動をしないで、<生>にだけ立脚して、いくら<死>のことを思いめぐらしても、それは推論から仮説でしかないであろう。死後の世界へ旅立つことが、白い巡礼の衣装をまとい、杖をもち、六文銭を首にかけ三途の川を渡ることだというような発想は、生の思考の延長上から生まれたものにほかならない
◆理論物理学などでは、仮説の新理論が実証確認できなければ歴史から抹殺されてしまうが、死後の世界の仮説は、奇跡に頼るしか実証方法がないため、あらゆる仮説が生き残り、巧妙に組み立てられた仮説や神話などは、何千年も世にはびこることとなる。

◆会葬者も、遺体に合掌したり、遺影に手を合わせたり、祭壇や霊柩車に合掌したり、火葬場の煙突の煙にまでに合掌したりしている。ところが、肝心のご本尊にはあまり手を合わせていない。僧侶の唱えるお経は、何を言っているのか分らないし、死者がどこへ行ったか分からないから、思いつくまま手当たり次第手を合わせている
◆葬礼儀式と言う仕事に携わって困惑し驚いたことは、一件深い意味をもつように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知ったことである。迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀式として形式化できたものだと思うほどである
◆今日の仏教装儀式に見られる姿は、釈迦や親鸞の思いとは程遠い物であろう。極端に言えば、アニミズムと死体崇拝という原始宗教と変わらない内容を、表向きだけは現代的に行っていると言っても言い過ぎではない

続き
その3



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