2016年8月31日水曜日

障害学への招待 第2章-1 石川准

前回
第1章

◆ルサンチマン:特定の何かに向けられているわけでもなく、あらゆるものに向けられうる悔しさ
◆障害者のルサンチマンを語るのはとても難しい。
◆多くの人が同意をしたとしても、それらの人びとにルサンチマンが最初からあったことは証明にならない
◆構築主義では、Xとは、人びとがXと見なし、Xとして扱うものだと定義する。およそ定義とは言えない概念の扱い方だが、最近の社会学ではとくに珍しくない。
◆構築主義は、「言語/言語外の現実」、「主観的表象/客観的構造」「テクスト/コンテクスト」といった古典的名二分法を受け入れず、我々の前にあるのは言語・表象・テクストだけだ、というのがこの立場の論理的帰結。
◆構築主義に立つと我々は構築ということは言えても捏造ということは言えない。なぜなら実在するものを客観的に確定することができなければ、実態との差分がとれなくなるからである。
◆価値に手の届かない者はルサンチマンを抱き、価値を否定する。そして別の価値を創造する。自らが信じる価値を否定するには命がけの自己欺瞞が必要であり、それなしには価値の作り替えは成らない

◆人は、自分は価値ある特別な存在だということ、あるいは無価値な存在ではない、ということを証明しようとして日々行為する。これを存在証明と呼ぶ。存在証明は他者による承認を必要とする
◆一般に存在証明は、日常のルーティンワークを通じて達成されている限り、自覚されず、また他者に気付かれることも少ない。存在証明が指摘されるのは日常的なルーティンワークの外部に存在証明が「突出」した時である。
◆存在証明が突出するのはとりわけ被差別者において。差別は人から存在価値を剥奪する。差別を繰り返し被った人々は、激しい自尊心の損傷を経験する。損傷した自尊心は修復を要求して存在証明に拍車をかける
◆存在証明の方法
①印象操作:負のアイデンティティを隠し、価値あるアイデンティティを装う
 ⇒隠蔽しようとするほど、負のアイデンティティが自分の本質となる。悪循環。
②補償努力:社会的に価値あるアイデンティティの獲得
 ⇒補償努力では、「~にしては・・・」という形式の評価になる。さらなる存在証明へと駆り立てる
③他者の価値剥奪
 ⇒他者のおとしめであって、自分の価値が積極的に証明されるわけではない
④価値の取り戻し:社会の支配的名価値を作り替え、肯定的なものへと反転させる
 ⇒既成の価値体系の下で存在証明を成功させてきた人々から強い反発や拒絶を受ける。価値をめぐる激しい闘争を招く。
そもそも人が存在証明に躍起になるのは、社会が存在証明を要求したから。社会成員の行動を方向付け、管理し、限定し、秩序を調達している。
◆アイデンティティ問題が深刻であるほど、あるいは印象操作などの社会的機能を実感するほど、価値の取り戻しを求めるようになる。
◆もし自分と言いう存在そのもの、アイデンティティ抜きの「本来」の「わたし」に価値を実感することができれば、存在証明は不要となり、人は存在証明の悪循環から解放される。これを「存在証明から自由」と呼ぶことにする
◆価値の取り戻しと存在証明からの自由とは、概念上は異なるものの、現実には、未分化のまま渾然とした形で醸成されることが少なくない
◆「価値を増殖しようとする営みと価値」から自由になる営みと、あるいはアイデンティティへの自由とアイデンティティからの自由とは、アイデンティティ問題を解決するための手段と言う意味をはるかに越えて解放と共生の思想へと消化する可能性を含んでいる

◆価値の作り替えは卑怯であり下品だと言う人がいる。それなら謙遜や上品は傲慢である。
◆謙遜はことさら宣伝しなくとも、社会は自分を正しく評価・優遇してくれると社会を信頼するものほど維持しうる態度だから。






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