前回
第2章の5
第2章市野川先生のラストです。
◆本来、別物であった「変質」(退化)と「人種混血」がナチスの下で重ね合わされ、優生学が人種主義と結合する
◆ユダヤ人の優生学者もいる。リヒャルト・ゴルトシュミットは、自然界ではその存在さえ許されないはずの「低価値者」に文明社会が生殖を許しているのは誤りだと説き、32年のプロシア州断種法案の作成にも関わったが、彼にとって無念だったのは、ナチスが自分たちから優生学と断種法を横取りしたことだった
◆福音主義(プロテスタント)教会の対応
・1931年、社会事業団「インネレ・ミシィオンは、「生きるに値しない生命の抹消」や、優生学的な中絶は認められないが、優生学的な不妊手術については、本人が拒否していない限り、「宗教倫理的に正当化される」場合があるとの公式見解を表明した
・1932年プロシア州議会決議に異を唱え、心身に生涯をもつ人間も価値がある。同胞として気づかうことがキリスト者の使命であると再確認したが、逼迫する財政の下で障害者福祉を運営していくため、優生学を組み込むことは、不可避のものとして認識された
・1933年の断種法に組み込まれた強制措置に対しても、その対象が断種法のあげる、病に限られるならば容認するという姿勢に
◆カトリック教会の反応
・1930年、ローマ教皇が回勅書を出す(一夫一婦制、家父長制、女性解放運動は誤り、両性の合意による禁欲以外の避妊の非難、母親の生命が危ない場合以外の中絶の禁止、不妊手術は一切認めない)
・当時のドイツにはナチスの断種法を正面から批判できたのはこれ以外ほとんど何もなかった ・医師へのサボタージュなどを呼びかけ
◆1939年9月1日におきた3つのこと
・ドイツポーランド侵攻(戦争開始)
⇒シャルマイヤーやプレッツが恐れていたこと(第2章の3参照)
・遺伝病子孫予防法の省令改正。不妊手術、婚姻前検診は原則中止。
・同日付でヒトラーが安楽死計画を命じた文書も発出
◆1945年の敗戦まで、ドイツ国内及び占領地域では、施設で暮らす障害児や入院中の精神病患者などが、特殊な施設にいそうされ、そこで頃された。少なくとも7万人、一説には10数万人。
◆不妊手術という間接的なやり方ではなく、直接抹殺する。
◆優生学者たちは病人や障害者を殺害するという方法には反対していた
◆フリッツ・レンツ「いわゆる安楽死は、人種衛生学の本質的な手段として考慮の対象となることはまったくない」
◆レンツは、安楽死を批判しながら、低価値者とされた人々が生まれないようにするため(淘汰を出生前に移行させる)に、遺伝の仕組みを解明し、その技術を開発しようとする「優生学」の存在理由を守ろうとした。
◆殺害というかたちで淘汰することが許されてしまうのなら、優生学はその存在理由を失ってしまう
◆レンツは、優生学者としてただ一人、安楽死法制化の準備に加わった。しかし、その場でもレンツは、優生学の見地から安楽死を正当化することはなかった
◆あまり注目されないが、第一次大戦期にドイツ国内の公立病院では、実に7万人の精神病患者が餓死している
◆ますます減少していく生活物資から、まず最初にはじき出されたのは、入院中の精神病患者その他の社会的に最も弱い立場にいる人々だった
◆7万人とは、1939年以降の安楽死計画によって殺された精神病患者の数にほぼ匹敵する
◆指導的立場にあったレンツと同世代の医師たちは皆、第一次大戦中に病院や施設で何が起こったのかを十分、知っていたはず。
◆再び開始された戦争によって、同じ事態が引き起こされるのだとしたら?そのとき、積極的殺害という選択肢が、とりわけ医療関係者の脳裏に浮かんだとしても何ら不思議ではない
◆ナチズム期の強制不妊手術・安楽死計画の被害者に対する戦後補償実現のために尽力したドイツの精神科医、クラウス・ドゥルナーは、1939年以降の安楽死計画の背後にある心性を「死に至る憐れみ」という言葉で表現している
◆優生学の論理は安楽死計画のそれから、また安楽死計画の論理はホロコーストのそれから、それぞれ微妙に異なっている
◆安楽死計画の犠牲者にはユダヤ系のドイツ人も含まれていた。しかし、その犠牲者の多くが生粋のドイツ人だった
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