2016年8月29日月曜日

哲学入門 ヤスパース 第4講

前回
哲学入門 ヤスパース 第3講

◆私たちのヨーロッパにおける神の思想には、歴史的にいって2つの源泉がある。それは聖書とギリシア哲学である。
◆この世界のうちにおいて一個の生活が、神の手に導かれて最善の努力を試み、しかもなお挫折したとしても、神が存在するという一つの驚くべき事実があとに残る
◆活動意欲は私たちの生ける証として先行し、そして最後に徹底的な挫折においてはじめてこのような意味を可能ならしめるものである

◆ギリシア哲学者たちによると、多くの神々が存在するのは、単に習俗によるだけのことで、本来はただ一つの神が存在するだけ
◆ギリシアの思想家たちにおいて問題とせられた神は考えられた神であって、エレミヤの生ける神ではないのである。しかしこの両者の精神は合致する
◆西洋の神学と哲学は、この2つの源泉から出発する無限の変遷過程において、神が存在するということと、神とは何ぞや、という問題を考えた
エレミヤ書 wiki


◆現在の哲学者は、神が存在するかどうかという問題を回避する傾向があるように見受けられる
◆哲学をするものは答弁を求められている
◆神学上の命題は、神はイエスに至るまでの数々の預言者によって掲示されたという理由によってのみ、我々は神について知ることができる、というものである

◆あらゆる神の証明に対する反駁は、神が存在しないということを意味するという帰結は誤り。神の存在が証明せられえないならば、それはおそらくこの世界内のある一つの事物であるにすぎないということを、示すだけである
◆全体者としての世界はけっして対象とならない。私たちは常に世界の中にあって、けっして世界を私たちに対立する全体として所有することはできない。


◆世界が非完結であるということは決定的な事実。世界は終わることがなく、むしろ永遠に変化しつつある
◆神の証明は、神を一種の世界実在に化そうとするもので、かえって神の思想を混迷に陥れる
神はけっして知の対象ではない、神は強制的に推論せられない、ということがたえず明らかになる

◆信仰はどこからくるのか。それは根源的には世界経験の限界から出てくるのではなくて、人間の自由から出てくる。自己の自由を本当に悟る人間が、同時に神を確認する。自由と神は不可分のものである。
◆私が本当の意味で私自身である場合は、私は自分自身によってそうであるのではないということを疑わない。最高の自由は、世界から自由であることによって、同時に超越者ともっとも深く結合されていることして自覚される

◆自由の確認がそれ自身のうちに神の存在の確認を含んでいるとするならば、自由の否定と神の否定との間にも一種の関係が存在することになる
◆神なき自由の主張と人間の神化との間に一種の関係が成立する。私が意思するという、誤った絶対的な独立性と解せられる者は、仮象的自由である。
◆私は自分独りの力によって私自身であるという自己錯覚は、自由な空虚な存在としての孤立無援の状態へ反転させるものである。
◆自由としての私たちの実存の開明によって、ふたたび神の存在が証明されるというのではなくて、それによっていわば、神の確認が可能である場所が示されるにすぎない

◆人間は自己自身に対して責任をもっているのであって、彼はいわゆる自由からして、自由を放棄することによって、この責任を逃れることは許されない。人間は、自分が決断し、道を見いだすということを、自分自身に負わねばならない
◆神が存在するという命題において本来的に意味せられているものは、超越することにおいて、すなわち実在そのものを通ってこの実在を越え出ることにおいて、はじめて本来の現実性として感得されうる
◆神の信仰の根源性はあらゆる媒介者を拒否する。神の信仰はすでに実際において、何らか規定的な、すべての人に対して言表可能な信仰内容の中にも存しなければ、すべての人にとって同様な、神を媒介する歴史的現実のうちにも存しない
◆神が存在するかぎり、神は回り道しないで直接に、個人としての人間にとって感得されねばならないのです

◆ものの直観はすべて、ものを形象として示そうとすると、かえってそれを隠すからして、もっとも決定的な神への接近は、無形象性において可能。しかし、旧約聖書のこの正しい要求は、旧約聖書そのものにおいてすら満たされていない

◆哲学することの究極において残るところのあのかすかな意識は、おそらく私たちがその周囲を回るだけで、直接それをとらえることのできぬもである
◆問いのないところには、答えもない。哲学することにおいてとことんまで駆り立てられるところの問いと答えを越えることにおいて、私たちは存在の静けさに到達する

◆神を信仰するということは、私たちが超越者の暗号とか象徴とか名づけるところの現象の多義的な言語として存在する以外には、いかなる仕方においても、この世界内において存在しないようなあるものによって、生きることをいう
◆私は信じているかどうかも知らないということを認識せねばならない。信仰は所有物ではない。信仰のうちにはけっして知の確実性は存在しない。むしろ生活の実践のうちに確認が存在するだけ
◆神について考えることは同時に、あらゆる本質的な哲学することの一つの例である。すなわち本来の哲学することは知の確実さをもたらさないで、本来の自己存在にそれの決断の自由な空間をもたらす
◆哲学的に語られた言葉はすべて、非常に簡略である。それというのは、哲学的な言葉は、聴く者自身の存在によって補われることを要求するからである


続き

第5講




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