その3
◆理化学研究所時代・開業
・仁科芳雄に誘われ、慶応の内科医局を辞め、理化学研究所に入る。
※理化学研究所
-大正6年(1917年)創設
-高峯譲吉、渋沢栄一、桜井錠二らの尽力による
-財源は皇室よりの御下賜金、政府補助金、民間実業家の寄付金により出発
-戦中は軍事産業に利用される
-多くのノーベル賞受賞者を輩出
-2003年より独立行政法人化、2015より国立開発研究法人化
・自由に研究できる反面、無給だったので食いぶちを稼ぐ必要があった。
・医局に残れないこと、また、数の少ない官公立病院は帝大で占められていた。
・銀座4丁目に武見診療所開業(京橋、都医、日医に入会)。
-「日本医師会の活動にほとんど無関心だった」 出典:三輪和雄(1995)p.195
・吉田茂(義理の叔父)の組閣を手伝い、政界へ足を踏み込む。
◆日本医師会副会長時代
・東大教授佐々貫之・柿沼昊作が田宮猛雄を会長として推す際、副会長を武見に打診。
・「日本医師会の副会長を引き受けるかどうかで、実は三日ぐらい考えた。これは運命だ、と考えた。過去の自分の勉強に新しい活路を求めるとすれば、医師会は新しい天地だ。学問と社会をつなぐという役割が専門団体としての医師会にはあるはずだ。」 出典:三輪(1995) p.163
・昭和25年、田宮猛雄が当選し、副会長として医薬分業問題に取り組む(46歳)。
-同代議員会にて「投薬は治療行為であり、治療は医師の全責任である」との決議。
-昭和26年、『医薬分業は是か否か』という一般公開討論会にて、「私は医薬分業を実施していて、処方箋を書いて渡すが、現状では信頼できる薬局が少なく、正確な調剤ができるという保証はない」と発言(暴漢に襲われる)。
-・GHQサムス公衆衛生福祉局長に「きみは戦争に負けたことを知っているのか!」と言われ、「あれは軍人が負けたのであって、医者が敗けたのではありません!」と発言し、辞職に追い込まれる。
◆医薬分業問題
≪医薬分業≫
医師が患者に処方せんを交付し、薬局の薬剤師がその処方せんに基づき調剤を行い、医師と薬剤師がそれぞれの専門分野で業務を分担し国民医療の質的向上を図るものである。
出典:平成24年版厚生労働白書より抜粋
・医師は古典的には、薬師(漢方薬の専門家)だった。
・医制(1874年) 第41条「医師たるものは自ら薬をひさぐことを禁ず」として、欧米の医薬分業が取り入れられたが進まず。
-「当時日本には調剤薬局がほとんどなく、医療保険は薬剤を中心に組み立てられており、また患者は医師から薬をもらうことに慣れていたので、現実の問題として実施は困難であった。」出典:池上直己ほか(1996)「日本の医療-統制とバランス感覚-」より抜粋
・GHQ占領下、薬剤師会(武田孝三郎副会長)がGHQに推進を具申。
・GHQサムスは日医・日歯・日薬三者会談を指示(前述)
・昭和26年に医薬分業法成立するも、1956年改正等で日医により骨抜きにされる。
-「医師・歯科医師・獣医師が、特別の理由があり、自己の処方箋により自らするときを除き」という但し書きが追加(薬剤師法19条柱書但書)
参考文献
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