2016年11月20日日曜日

「武見太郎」まとめ その5

前回
その4


◆医師優遇税制
・昭和23年以降、インフレ下においても診療報酬単価が据え置き。
・経済の混乱期で保険財政が赤字のため、診療報酬の支払が滞る。
・公共工事や政府購入物の支払の遅れには「支払い遅延防止法」で、遅延分の利息などが補填されたが、診療報酬に対してはそれがなかった。
・吉田茂宅に来ていた池田勇人蔵相(昭和26年当時)にこの不満を述べたところ、医療の公共性を認めた上で税の軽減を提案される。
・これに基づき約70%を必要経費とみなし、25-30%に対して課税することが閣議了解(大蔵省によると昭和47年度分で開業医の実際の経費率は診療報酬の50-55%)。
・自民党や税制調査会、大蔵省ら廃止論者との議論を続け、昭和54年に廃止。
 ⇒その後20年間この「悪法(※大蔵省や税調を皮肉った文脈で 塚崎注)」が続いたということは、社会的にも存在意義があったからだと私は信じている。(「聴診記」より)
  
・当時の医師会長は谷口弥三郎参議院議員
武見は「医師の公共性」を吉田と池田に説明して納得させた。しかし、著書に以下の様な記述がある。
 彼(谷口会長)は、医業の公共性という問題については全くふれずに、診療報酬がまともに払えるようになるまでということを、しきりと吉田総理に頼んだそうである。・・・私は谷口さんに対して、「あなたの考え方は将来の医師のモラルに禍根を残すことになる。診療報酬が適正化されさえすれば医師はそれでいいのか、私は全く反対である。」と、強硬に抗議をした。しかし、彼は、自分は大多数の医師がそれを望んでいると考えるからそういったのだといって自説を曲げなかった。・・・医師会を得るような国会議員を医師会として送るべきではないと、そのころから痛切に感じていた。谷口さんがもしも「医業の公共性」を認めていたならば、今日の診療報酬のあり方は、よほど違ったものになっていたと思う。(「聴診記」より)

◆日本医師会会長へ
・東京都医師会長の黒沢潤三、その次の東京都医師会長の小畑惟清に敗れた後、三回目の会長選で医師会長に当選(昭和32年)。
・会長以下役員の厚生省への挨拶を禁止。
 - 保険医の二重指定決定への報復。
 - 理事の厚相との個別の関係を断つ(ワンマンプレーへの布石)。
 - 神田博厚相(武見とは旧知)からの面会を引出し、二重指定について政令や省令の手直しを妥協の条件とする。

◆医療金融公庫
・昭和35年発足(岸内閣)。
・病院医療と開業医や保健所の活動を有機的に結びつけていく。⇒病診連携
・医師会病院を建設し、開業医を家庭医として、地域サービスを通じて病院と密接に結ぶ。
・公庫の金利を市中よりきわめて安く抑え、各地での医師会病院の建設を奨励する。
・個人の病院の増築などにかなり融資された。(⇒本来の武見の目的とは少しずれた)
・医療金融公庫は後に、社会福祉事業振興団と合併し、社会福祉・医療事業団になる。その後独立行政法人化し、現在の福祉医療機構(WAM)として現存している。



つづき
その6



参考文献
       

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