前回
◆1960年代の病院ストを契機に、国が設置した「病院経営管理改善懇談会」において、病院組織の近代化を図るための改善策としてチーム医療の必要性が示された
◆2010年3月、厚生労働省「チーム医療の推進に関する検討会」報告書において、「チーム医療とは、医療に従事する多種多様な医療スタツフが、各々の高い専門性を前提に、目的と情報を共有し、業務を分担しつつも互いに連携・補完し合い、患者の状況に的確に対応した医療を提供すること、と一般的に理解されている」と示された。
◆医療提供の理念や場を規定した「医療法」に、チーム医療の考え方がわずかに反映されたのは1992年の改正。
◆医療法第1条の2には「医療提供の理念」が定められているが、この条文中に医療の担い手として医師、歯科医師に加えて、薬剤師、看護師の職種名が初めて明示。
◆日本の医療水準を上げるためには、看護師が主体的にできる業務が少なすぎる、看護師が自分の判断でやれることを明確にすべき、と医師でもある坂口力厚生労働大臣が著書『タケノコ医者」(光文社刊、 2001年)に記した。
◆このような背景から、 2002年「新たな看護のあり方に関する検討会」(座長:川村佐和子)では、「療養上の世話」は看護師の責任で判断すべきものであること、包括的な医師の指示の下で、在宅がん終末期患者の痔痛緩和ケアにおける麻薬等の適時・適切な投与、在宅で死を迎えた患者への対応など、医師との連携のあり方が示された。
◆中間報告書では、1951年以来、法的にそれまで明解にされてこなかった「静脈注射」を診療の補助に含むよう法律解釈の変更が提言され、これに基づいて静脈注射は50年ぶりに看護師も行えるようになった。
◆2007年12月25日、内閣府の規制改革会議第二次答申、医師不足対策の一環として、医師が行うとされている医療行為のうち、看護師等医師以外の医療従事者でも実施可能なものについては、積極的に実施を認める方向。諸外国の状況を踏まえてナース・プラクティシヨナーなどの導入についても言及。
◆この答申の3日後、「医師及び医療関係職と事務職員等との間等での役割分担の推進について」(厚生労働省医政局長通知 2007年12月28日)。
・医師の事前の指示の範囲内での薬剤投与量の調節
・救急医療等における診療の優先順位の決定診療前の看護の情報収集と補足説明など、医師と患者の意思疎通の調整など8項目にわたる看護師の役割が示され、看護師の業務の拡大と責任がより大きくなる内容。
◆日本学術会議での議論について詳細に記載(是非本を読んでみて下さい)
◆「チーム医療の推進に関する検討会」の報告書(2010年)では、"看護師はチーム医療のキーパーソン"として大きな期待が寄せられているとして、看護師の役割拡大のあり方として、特定の医行為を行うことができる特定看護師(仮称)の提案がなされた。
◆引き続いて開催された「チーム医療推進会議」では、約3年にわたる長い議論の結果、 2013年3月、「特定行為に係る看護師の研修制度」(案)として報告された。現在、関係者からの最終的な意見を求め、同案を踏まえた法制化がなされるところである。
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◆WHO(世界保健機関)やILO(世界労働機関)への再加盟が1951年に実現。
◆WHOでは、1953年に西太平洋地域事務局(WPRO)において「看護教育と看護管理に関するセミナー」が開催。当時の厚生省の金子光看護課長が参加。
◆1955年から3年間、わが国の看護教育の技術援助のため、キャサリン・ライマン女史がWHOから派遣。国立公衆衛生院(現国立保健医療科学院)において、保健婦・助産婦・看護婦学校の専任教員の育成に関して指導を行った。
◆保健婦の研修しか行っていなかった公衆衛生院において、看護の質向上のために最も重要な人材の育成を、助産婦、看護婦に拡大して取り組んだ
◆1961年、 WPROによる看護管理セミナーが東京で開催され、「看護管理の定義」が定められた。
◆1978年、アルマ・アタ宣言。
◆1986年、 WHO主催の世界看護指導者会議が東京で開催。
◆1990年、日本で初めての看護のWHO協カセンターが誕生。プライマリーケアに関する協カセンターとして聖路加看護大学、千葉大学看護学部、東京大学医学部保健学科および国立公衆衛生院看護学部の4施設が連携・共同した形で指定された
◆2004年からは聖路加看護大学単独での指定。
◆2007年には、兵庫県立大学地域ケア研究所が災害看護に関するWHO協カセンターとして2番目の指定を受けた。
◆従来、世界保健総会に出席する日本政府代表団に看護職が入ったことはなかったが、2003年には厚生労働省の田村やよひ看護課長が初めてのメンバーとして、また南裕子日本看護協会長が顧問として参加
◆2005年ICN会長選挙において、東洋から韓国に次ぎ2人目の南裕子が当選。
◆1958年、「ILO看護婦の労働・雇用条件に関する特別専門家会議」に湯槙ます日本看護協会会長が出席。
◆1977年、第16回ILO総会において採択された「看護職員の雇用及び労働.生活条件に関する条約(149号)・勧告(157号)」は、「低賃金と劣悪な労働条件の改善」を掲げて病院ストを経験してきた日本の看護職員に、大きな希望と衝撃を与えた。
◆このILO総会には、厚生省から清水嘉与子看護課長が出席。日本看護協会や労働組合は、政府にこの条約・勧告の批准を強く働きかけてきたが、条約第6条にある「教育休暇」がないなど、日本は労働法制上における諸条件が異なることから、批准されないまま今日に至っている。
◆やむなく別途県条例によって県職員を対象に「教育休暇」を制度化した所もある。
◆1977年には、ICN第16回4年毎大会が東京で開催。この大会はアジアで初めてであり、79力国が参加。アルマ・アタ宣言が出される前年ということもあり、大会の成果として、地域看護・プライマリーヘルスケア(PHC)の重要性と、継続的な看護の発展には卒後教育、続教育の強化が重要という認識が世界の看護指導者共通のものとなった。
◆ドロシー・コーネリウスICN会長が掲げた合言葉は"accountability"であった。当時は「責務」と訳されたが、専門職としての「説明責任」の意味が強いものであり、PHCにおける看護師の役割の拡大に応えるものと考えられた。
◆2007年には、南ICN会長、久常節子日本看護協会長の下で、横浜においてCNR会員代表者会議と学術集会が開催。121力国3,900名。
◆わが国は経済の活性化を図るために、東南アジア地域を中心に2国間の貿易協定を結ぷ動きを活発化させてきた。これは経済連携協定(EPA)もしくは自由貿易協定(FTA)と呼ばれ、日本は2012年11月時点で13力国との協定を締結。
◆外国人看護師の受け入れに当たってのわが国の基本的な方針は、以下のようである。
①国の雇用基本計画にあるように、社会・経済の活性化のため専門的・技術的な労働力は積極的に受け入れる。
②看護師免許・資格の相互認証は行わない。看護師として就業するには、日本の看護師国家試験合格を求める。合格までの間は看護補助者として就業する。
③雇用条件は、日本人の看護師および看護補助者と同等以上とする。
④看護師の需給は基本的に日本人によるものとし、外国人看護師の受け入れを看護師不足の解消手段とはしない。
◆外国人看護師は、入国後6力月間の日本語やわが国の看護、医療、文化等の研修後、各地の病院で看護助手として就業しながら国家試験の受験準備をする。国家試験に合格すれば、在留資格の更新をしつつ半永久的に在留が可能となる。しかし、受験機会は3回までとされており、この間に看護師国家試験に合格できなければ帰国することとなっている。
◆これまでの結果では国家試験合格率は芳しくなく、社会からの批判もあったため、厚生労働省ではさまざまな対策を取りつつある。
◆具体的には、「試験問題の漢字にふりがなを振る、病名に英語表記を加える、試験時間を延長する、3回目の試験で一定以上の点を取った者に在留の延長と4回目の受験を可能にする」など。
◆保助看法上は外国で看護師教育を受けた者は准看護師試験を受験することが可能なことから、准看護師免許を取得する者も現れている。これは、経済連携協定の当初の趣旨とは異なるため、今後、問題化する可能性を含んでいる。
◆外国人看護師を受け入れた病院では、職場の活性化や職員のコミュニケーション能力の向上などの好ましい評価がある一方、受け入れ自体に伴う経済的負担に加え、国家試験準備のための教育や日本語教育などの新たな負担増となっているという実態も明らかにされてきている。
◆国家試験に合格しても本国に戻る者もおり、受け入れた病院関係者には戸惑いが広がっているとの報告もある。
◆外国人看護師自身の日本での体験についての研究では、看護補助者として就業することによって、看護師としてのアイデンティティの揺らぎや専門技術が低下することへの不安、自国では未経験の認知症高齢者ケアについての驚き、日常生活習慣や動作の違いによる戸惑いなど、日本語だけではない困難が明らかになっている。
つづき
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