2016年10月13日木曜日

日本の看護のあゆみ 日本看護歴史学会 8

前回
その7

◆日本の病院は、開業医制度を基盤に「医師の一人医業」から拡大し成長してきた。そのため、戦後GHQの指導により、国立病院・療養所として組織体系的に医療を提供することが求められて初めて、病院管理学が導入されたと言える。

◆1949年、国の病院管理研修所画設置。1951年、国立東京第一病院(現国立国際医療研究センター)の外来および入院患者の「診療圏調査」を実施し、診療科により圏域の広さが異なることを明らかにした。
◆同研修所は、1961年には「病院管理研究所」となり、初の看護管理の研究職ポストが新設され、塚本蝶子(現姓荒井)が就任。
◆同研究所は、 2002(平成14)年、国立公衆衛生院と合併して「国立保健医療科学院」となり、埼玉県和光市に移転。

◆日本病院管理学会は1963年に設立され、2008年より「日本医療・病院管理学会」と改称。
◆国は国民の保健上の重要課題に対し政策医療として1962(昭和37)年の国立がん(研究)センター、国立循環器病(研究)センター、国立精神・神経(医療研究)センター、国立国際医療(研究)センター、国立成育医療(研究)センター、国立長寿医療(研究)センターを整備した(2010年独立行政法人化に伴い( )内を含む名称に)。
◆医師の不足に対し国は1969(昭和44)年、無医地区問題を解決するため「一県一医科大学構想」を立て、1972年筑波大学を開学、1975年筑波大学附属病院開院後、新設医科大学が急速に各地に設置された。
◆2004年の国立大学法人化後、 80ほどの医科大学中、これら新設医科大学の多くは合併統合されて「医学部」となり、附属看護短期大学等は4年制教育に切り替えられ、大学教育の共通基盤が成立した。

◆「21世紀までにすべての人々に健康を! Health For All in the 21St century (HFA)」運動が1978(昭和53)年にWH0により提唱され、臨床重視から予防重視へ教育の力点をシフトすることと、看護の最善の寄与が要請された。
◆20世紀中に実現できなかったHFA運動は、 2020年までの実現を努力目標に、国の「健康日本20を始め各県、各市町村ごとのスローガンを掲げて取り組まれている。

◆1994(平成6)年に改正された地域保健法が、1997(平成9)年に全面施行されたことにより、保健所は二次医療圏ごとに再配置されることとなり、地域保健医療計画に基づく活動が、特に地域包括支援センターの設置により、保健と医療との縦割り行政の是正、地域生活に密着した連携強化が図られつつある。

◆保健師は昭和初期、国の「健民健兵政策」の一翼として、伝染病予防、寄生虫予防、栄養改善、母子保護などのために、東京市京橋区と埼玉県所沢につくられた保健館で開始。
◆第二次世界大戦後、保健師は結核対策や母子保健水準の向上のために、また高度成長期には脳卒中対策、精神保健対策なども含めた活動を保健所を拠点として展開、目覚ましい成果を残した。
◆1961年の国民皆保険の成立に寄与した全国市町村国保組合の国保保健婦は、過密過疎の時代の流れの中で、地域の健康問題に取り組み、国保医療費の適正化に貢献。
◆産業振興による市町村国保の被保険者の減少により、1978年の「国民健康づくり」政策(HFA)を背景に、国保保健婦は市町村衛生課に身分移管された。

◆1994年に保健所法が「地域保健法」に改正されたことにより、保健師の活動は大きく変化。
◆保健所は危機管理を含む健康に関する市町村間の調整や専門的、技術的な助言を主に担うことになり、住民に身近な母子保健、老人保健、精神保健などのサービスは、市町村が担うことになったため、市町村で活動する保健師の需要が増大した。
◆2000年から施行された介護保険法は市町村が保険者であるため、市町村保健師には、介護予防サービスの提供が求められるようになった。
◆2008年度からは、生活習慣病、メタボリック症候群の予防に向けて、特定健診・保健指導が導入され、食事・運動などの生活習慣の変容、体重減少など国民の健康づくりに大きく貢献。

◆昭和20年代前半の子どもの出生場所は、95%以上が自宅。その後、施設内分娩が急速に拡大し、1960年には施設内分娩が自宅分娩を上回った。
◆このような変化は、助産師のケアのあり方にも影響を与え、助産所中心の時代に比べ、助産ケアは医療的な色彩の濃いものになった。
◆分娩は生理的な過程であることから、正常産は助産師が独立して行うことができるものとして保助看法で位置づけ、医療法上でも助産所の開設が許可されている。
◆一時、病院・診療所での出産は安全であるという考えが肥大化する風潮の中で、助産所は減少していたが、最近は微増。2011年末の助産所開設者は947名。

◆2008年に助産所の嘱託医師制度が60年ぶりに一部改正され、産科・小児科を専門とする嘱託医師と24時間の緊急対応の可能な嘱託医療機関を定めておくこととされた。
◆近年、産科医師不足が社会問題化したことを契機に、病院・診療所に就業している助産師たちの中には、「院内助産所」 において正常産を自分たちの手に取り戻す動きが出てきた。
◆妊婦検診や保健指導.相談などを「助産師外来」で行う動きも活発化している。政府は、こうした活動を推進すべく補助金を措置していることから、今後の発展が期待されている。

◆看護サービス提供の場の拡大、看護の役割拡大の直接的な引き金は、厚生省の「看護制度検討会報告書」(1987年)。
◆これに先んじて、日本の看護界に大きな影響を与えた3つの国際的な会議。
①1977年、第16回国際看護婦協会 東京大会の開催。
 ・地域看護、プライマリーヘルスケアと卒後教育・継続教育の強化が重要であるという認識が世界の看護指導者共通のものとなった。
②1978年、 WH0とUNICEF共催のプライマリーヘルスケアに関する会議。アルマ・アタ宣言が発せられ、"HealthForAll(HFA)すべての人に健康を!"の実現に向けて、看護に最善の寄与が求めることに
③1986年、WH0主催の「世界看護指導者本議」が東京で開催され、HFA推進には看護職のりーダーシップが大切なこと、リーダーシツプの強化方策などが議論されたのであった。

◆「看護制度検討会報告書」を契機に、専門看護師は日本看護協会において検討が開始。訪問看護師は厚生省が1992年の老人保健法の改正において、老人訪問看護ステーション制度として確立。
◆1994年の診療報酬改定により、訪問看護の対象者は、老人のみならず青壮年期のがん終末期の患者や難病患者などにまで拡大し、すべての在宅療養者が訪問看護サービスを受けることが可能に。
◆1992年の第二次医療法改正において、新たに患者の居宅も医療の提供の場として位置づけられ、訪問看護サービスは確固とした制度となった

◆訪問看護ステーシヨンは、介護保険制度下では介護サービスとの競争が必至となり、伸びは鈍化。
◆訪問看護制度の特徴は、看護師が管理者となることとされており、診療報酬や介護報酬を直接受け取ることができる点。被雇用者としての歴史しか持てなかった看護師にとっては大きな前進と言える。
◆ただし、規模が小さい場合は経営的には赤字になっていることも多いと報告されており、規模の拡大が課題となっている。

◆わが国の臨床で働いている看護師には、専門学校卒業生が圧倒的に多いという実態を踏まえると、他の名称による専門性の高い看護師の育成も必要と考えられ、「認定看護師」の制度も創設された
◆専門看護師は1996年に初めて精神看護とがん看護の分野で認定。以後、地域、老人看護など13の専門看護分野に広がり、1,266名(2014年3月現在)が認定。
◆認定看護師は、感染管理、皮膚・排泄ケア、緩和ケア、不妊症看護など21の認定看護分野、 1万2,452名(2014年3月現在)。
◆診療報酬では、2004年の外来がん化学療法ケア加算、2006年の褥瘡ハイリスクケア加算、 2012(平成24)年の感染防止対策加算などで認定看護師の配置が求められ評価される。
◆2007年からは、病院等の医療機関の情報提供を推進する観点から、専門看護師と認定看護師の配置を広告に掲載できるようになった。

つづき
その9




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