その9
今日は産婆と看護婦の教育の歴史です。
産婆についてはこの辺と合わせて読むと面白いかもしれません。
「“いのち”をめぐる近代史―堕胎から人工妊娠中絶へ」岩田 重則
◆わが国における看護教育は、1885年に東京で、1886年に京都で始められた。
◆保助看法制定に至るまでの旧制度と称されている三規則・1899年公布の産婆規則
・1915年公布の看護婦規則
・1941年公布の保健婦規則
◆高等学校卒業者に3年の教育をして、国家試験合格者に看護師免許を交付する教育制度は、保助看法制定の前年、1947年の「保健婦助産婦看護婦令」公布から始まった。
◆現行の看護教育のカリキュラムの出発となった「保健師助産師看護師学校養成所指定規則」は、1951年8月に制定。この指定規則に基づくカリキュラムは数次にわたって改正。
◆直近の教育内容に係る大きな改正は、2011年4月。看護をめぐる環境に配慮した質の高い看護を提供するために、学生の看護実践能力を強化する教育を求めている。◆わが国の看護教育制度と言えるものは、産婆(助産婦)に関するものが最初。
◆1874年「医制」が制定。この中に産婆に関する規定が定められ、翌1875年に「産婆免許規則」が訓令されて、産婆教育が開始。
◆その教育の近代化は、1899年7月19日に勅令として制定された「産婆規則」から。
◆「産婆規則」では、地方長官(政府から任命された府県知事)が行う試験の合格者に実地試験が行われ、合格した20歳以上の女子が産婆名簿に登録することによって、産婆業務が実施できた。
◆1910年の同規則改正によって、産婆資格取得は、①内務大臣の指定した学校または講習所を卒業した人、②産婆試験(いわゆる、検定試験)に合格した人に。
◆①の学校または講習所は、入学資格を高等小学校卒業者として2年間の教育を行った。当時は、尋常小学校6年までが義務教育で、女子の高等小学校への進学はわずかであり、産婆学校.講習所の卒業生は当時としては高学歴女子。
◆検定試験については尋常小学校卒業でも受験可能であった。
◆1912年、「私立産婆学校産婆講習所指定規則」。
◆産婆規則による産婆には看護婦業務を行う資格はなかった。◆産婆の養成施設数は、1914年までに1道3府33県で合計127校(公立16校、私立111校)が設立された。そのうち、内務省令指定規則による産婆養成施設は9校、他は検定試験を受験するための短期の講習所。
◆これらの養成施設は、その名称に「産婆」を用いていた。
◆「助産婦」の名称を用いた教育の始まりは、1892年に大阪で設立された緒方助産婦教育所。設立者の緒方正清は、わが国の新しい産婆教育に貢献した医師の一人。
◆「産婆とは学術の素養なき老婆を示し、助産婦とは素養あり規定の試験を終へたるものの名称を表す」と記し、「助産婦」と改めるよう提唱。
◆緒方は1896年、産婆改良に関して内務省に意見を開陳し、同時に『助産之弁』を発刊し、助産婦学会を起こし、卒後教育にも努めた。
◆助産婦という名称が公称されたのは、1942年の「国民医療法」。正式な名称改正は1947年の「保健婦助産婦看護婦令」から。
◆産婆講習所の専門科目は医師によって教授された。
◆検定試験を受験する人の教育は産婆規則に医師の指導の下でと記載されているので、開業医の下で1年以上見習いとして働き、試験科目のほとんどは独学して、医師の証明書を得て試験を受けた人も多い
◆「産婆規則」から1947年の「保健婦助産婦看護婦令」制定までの間、産婆の教育制度に大きな変化はなかった。
◆「産婆規則」成立後から大正時代には、資格を持った産婆がそれぞれの地域で定着するようになり、人々の意識も資格を持った産婆に助産を依頼する方向に変化し、需要も増えていった。
◆戦前は自宅分娩がほとんどであった。産婆は身近な存在として、出生児の母親や祖母から信頼され、各地方の女性のリーダーとしての役割を果たした人が多く、自立心のある女性の憧れる職業の一つであった。
◆わが国における看護教育の始まりは、1887年前後。
◆高木兼寛らによる有志共立東京病院看護婦教育所(後の慈恵会付属看護婦講習所)、櫻井女学校付属看護婦養成所(東京)、新島襄らによる京都看病婦学校(同志社)が創設、続いて1889年には帝国大学医科大学附属第一医院看病法講習科、日本赤十字社看護婦養成所。◆日赤を除いてキリスト教宣教看護師の直接的指導あるいはイギリスのナイチンゲールによる看護教育などを模範とする女子教育・西欧文化の受け入れとして開始。
◆1915年に「看護婦規則」が内務省令として制定された。
・看護婦免許を取得するには年齢18歳以上(満16~17歳)で、2通りのコース
①地方長官の指定した看護婦学校または講習所を卒業した者
②地方長官の行う看護婦試験(いわゆる検定試験)に合格した者
◆地方長官から看護婦免状が下付され、この看護婦免許を所持しなければ看護婦と称して業務することができなくなった。
◆2コースによる資格取得方法は産婆に準ずるものであり、1900年に出された「東京府看護婦規則」やその後の各府県の規則も同じ
◆検定試験受験の要件は、義務教育であった尋常小学校卒業以上で、医師の下で1年以上看護を学んだという医師の証明が必要。
◆開業医の下では診療の介助やお手伝いさん的な仕事をし、試験科目の勉強は独学が多く、高等小学校卒業以上を基礎学歴とする指定校卒業生との学びの差は大きかった。
◆看護婦規則制定の2力月後、1915年に「私立看護婦学校看護婦講習所指定標準ノ件」内務省訓令が定められた。
◆それまで各都道府県別に定められていた看護婦学校または看護婦講習所における教育内容が全国的に標準化された。◆この学校講習所の修了者には無試験で免状が与えられた。さらに、この訓令の取り扱いについて「看護婦規則並私立看護婦学校看護婦講習所指定標準」が通達された。
◆看護婦規則制定まで、府県で看護婦に関する規定があって、府県の看護婦免許を得ていた者はそれを適用し、それ以外のこれに類する看護の教育を受けて看護婦となった者も同じ既得権が適用されるとするもの。
◆官立、公立の看護婦学校講習所の指定にも、この指定標準が準用された。
◆従来の看護婦養成所は、規則制定後に地方長官指定看護婦学校講習所として認可されたものと、指定標準に満たない学校とに分けられた。
◆日中戦争の戦局を反映して1941年に看護婦規則が改正され、免許取得年齢の18歳以上は17歳(満15~16歳)以上と繰り下げ
◆同年12月8日に太平洋戦争に突入し、1943年には戦況急迫による看護婦増員の目的で「女子中等学校卒業者に対する看護婦免許に関する件」が文部省、厚生省共同で通達。高等女学校で600時間、看護に関する科目の授業を行った学校は看護学校の指定を受け、卒業生には免状が与えられた◆同年、看護婦規則改正で検定試験受験資格特例として、医師の下での経験は女子中等学校卒業者が3力月以上、その他は6力月以上となった
◆当時の状況から見ると、中等教育は実業学校等で3年のところもあり、尋常小学校卒業後6力月でも看護婦試験を受験し、合格者に看護婦免許が出された。
◆終戦間際の1945年6月5日に帝国大学系と官立医科大学系の看護婦養成所は、勅令によって看護婦と高等女学校卒業の資格が取れる修業年限3年の厚生女学部となった。
◆看護婦規則による教育機関の中で、先駆的な存在は聖路加。
◆1900年、聖公会宣教医師として来日したルドルフ・トイスラーは、1920年、高等女学校卒業生に3年間の看護教育をする聖路加国際病院付属高等看護婦学校を設立。◆カリキュラムはアメリカとカナダの看護教育をモデルとし、看護教育の責任者をアメリカ人のナース、ミセス・セント・ジヨンとして、看護は看護婦が教育した。
◆1927年に旧制専門学校の聖路加女子専門学校となり、ここに看護を学ぶ文部省認可の高等教育学校が出現した。
◆日赤では、志願者の学歴の高まりに応えて学力の均質化を図るため、1933年に日本赤十字社救護看護婦生徒・救護看護婦長候補生養成規則を制定し、入学資格を高等女学校卒業者としている
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