2016年9月26日月曜日

日本の看護のあゆみ 日本看護歴史学会 6

前回
その5

今日はボリューミーです。

今はナースステーションではなく、
多職種連携拠点としてワークステーションと呼ぶこともあるのですね。
知りませんでした…

あと、院で病院建築の授業を受けた事がありましたが、
よーく考えられていてとてもおもしろかったです。
効率的な動線、トイレの流しの下の作り、空気の流れ、窓と緑の配置とか。
色々な研究がされていて、ちゃんとエビデンスも出てるんですよ。

病院ってのは健康な人間でも、行くだけで生気を吸われますよね。
色々な方による工夫がなされているということを知って、
とても感動したのを覚えています。

本題から逸れましたがどぞ。



◆1950年に「完全看護」がスタート。
 ⇒病院における看護は、家族や付き添いでなく、病院所属の看護職(患者4人に1人)の手で行う。
 ⇒実際には困難で、名称が「病院がすべての世話をしてくれる」という誤解を生じさせ、かえって患者の不満のもととなる。
◆付き添い婦をつけないという意味での「完全看護」から、社会保険医療制度の標準的入院サービスとしての「基準看護」の制度がつくられた。
 ⇒病院で提供される看護の水準を、患者に対する看護要員の数と看護師の占める割合で担保。
 ⇒12時間労働だった看護職に一般労働者並みの8時間労働としての三交替勤務を導入。一定水準以上の看護提供を承認要件とする。

◆付添看護料は年々増加。1991年には1,100億円を超え、その87%は老人医療が占める。
 ⇒患者の自己負担。入院した病院がたまたま「基準看護」の承認を受けていない病院であることで、患者に別途負担が生じることが問題とされた(今で言う差額ベッド的な)
◆1994年、健康保険法等の改正。入院時の看護は各医療機関が責任を持つて提供すべきものとして、付添看護の廃止が法律上に明示。1997年9月末には、すべての医療機関が付き添いのいない「新看護体系」の下に一本化。
◆財源は老人保健施設と同様、食費を患者負担とすることで一応解決。

◆2000年、入院生活をする上での基本的なサービスである入院環境料、入院時医学管理料そして看護料などを総合評価した「入院基本料」が、看護配置、看護師比率、平均在院日数等に応じて設定
◆個別の点数ではなくなったが、看護料は入院基本料の中に、それまでとほぼ同様の算定要件として組み込まれている
◆看護料が特定できないことから看護管理者の手腕が問われる

◆2006年には、「患者1.4人に1人」(いわゆる7対1看護)の看護職員配置を基準として点数が設定
◆手厚い配置基準の設定が看護現場を大きく変える推進力となった反面、急速な制度改革は現場に混乱をもたらす一因ともなっている

◆1945年、GHQは「陸海軍病院に関する覚え書き」と「軍事保護院に関する覚え書き」を出し、陸海軍病院およぴ傷痩軍人病院はすべて1945年12月1日には厚生省に移管され、一般市民の医療を行うことに。
◆1950年頃には、結核や肺炎に対するストレプトマイシンやぺニシリンなどの薬が開発され、疾病構造の変化に伴い、内科・外科を中心として発達してきた病院は、入院外来の形が「中央化」(centralized Management)され始めた。
◆総婦長制度(1950年)、完全看護(1950年)、完全給食(1953年)導入。
◆1955年、文部省の大学病院研究会の検討を経て、東京大学医学部附属病院に、日本で最初の「中央手術室」が設置。
◆昭和40年代に入ると、病院の建築・構造は「中央化」が常識に。
◆診療科別に動いていた病院規模の拡大は、看護管理の組織運営にも影響。
◆当時の中間管理者(婦長・主任)となる前に教育を受けたものは少数で、役職に就いてからも少なかった。
◆病院内で使用される多くの医療機器や材料・消毒物品・リネンなどは中央管理(Supply Processing and Distribution:SPD)となり、何でも丸抱えしていた看護業務が整理される
◆各部門の施設・設備がますます機械化され重装備となり、あらゆる部門における看護サービスの連携と看護業務の整理や看護職員の教育が求められるようになった。

◆患者の権利の浸透により医療二ーズは多様化。
◆患者個人を全体として(身体・精神・社会的に)見ることが求められ、医師および看護職とともに増加した診療補助部門との連携が強く求められるように
◆「看護婦詰所」は、1955年頃からは「ナースステーション」と呼ぱれるようになった(聖路加国際病院では戦前からそう呼ぱれていた)
◆今日では、ナースに限らず、医療関係職が働く拠点として、「ワークステーション」と呼んでいる所もある。看護職が組織的に全病院の医療内容と経営基盤を基に病床管理に関わる立場となり、看護職を副院長として責任を負う立場に変化させた。
◆1970年代からは、電子カルテシステムによって患者情報などへの接近がより容易になり、治療.看護の効率化やケアの質の向上、費用対効果の向上に寄与している

◆戦後間もない頃の看護婦養成の多くは病院附属看護学校でなされた。
◆看護学生の実習は看護力の補充で、1年間を通してまんべんなく配置してほしいとの要求が病院側からあったが、学生の実習は講義の進行に合わせて行われるように改革された。
◆看護力の補充がなくなったことにより、看護婦不足につながっていった。

◆看護学生が実習場に出るようになると、戴帽式(キャッピング)と呼ぱれた儀式が行われて「ナイチンゲール誓詞」を唱えた。また、そのキャップは出身校のキャップとして誇りを持ったが、平成時代に入り看護大学が増えるにつれて、この儀式を行う学校は減少している。◆病棟・外来でも、アメリカの真似をして出身校のキャップを被っていたが、今日ではナースキャップを被らない病院が増えてきている。

◆医療の重装備化に伴い、病院内における安全管理は強化され、 MRSA院内感染防止として専任・専従の看護師を置く方針が決定(1993年)
◆専門看護師・認定看護師・感染管理のリスクマネジャーなど、新職種の育成や配置も看護の専門性の発展に大きな影響。
◆1965年から、特に1980年代より大学院においてAPRN(アドバンスト・プラクティス・レジスタード・ナース:高度実践看護師)を養成。
◆アメリカのAPRNにはNP(ナース・プラクティショナー)、CNS(クリニカル・ナース・スペシャリスト:専門看護師)、 AN(ナース・アネステティスト:看護麻酔師)、 NM(ナースミドワイフ:看護助産師)がある
◆NPについては約14万人が登録され増加中であり、定められた業務範囲に基づいて医療・看護の実践を行い、プライマリーヘルスケア・プロバイダーとして、また専門看護分野において活躍。

◆専門看護師制度は1994年に発足し、がん看護の他に、精神看護、地域看護、老人看護、小児看護、母性看護、慢性疾患看護、急性・重症患者看護、感染症看護、家族看護、在宅看護、遺伝看護、災害看護の合わせて13分野がある。
◆認定看護師制度は1995年に、認定看護管理者制度は1999年に発足。
◆いずれも日本看護協会に一本化された制度である。

つづき
その7




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