2016年9月4日日曜日

哲学入門 ヤスパース 第5講

前回
第4講


昨日消えてしまったまとめ。
もう1回やり直しました(T_T)

第5講
◆愛や、闘争や、高遠な使命を選びとることなどにおいて、無制約的な行為が生まれる
◆限界において、すなわち例外的状況において、はじめて、無制約的なものによる検診は、あえて現存在の喪失となることもあり、不可避的な死を引き受けることもできるようになる。
◆制約的なものは、どんあときでもどんなことをしても、現存在にとどまって、生きようとする
◆信仰は人を不確実さから救い、自己吟味を怠らせる。しかし、このような形態の無制約的なもののうちには、一種のひそやかな制約的なもの、すなわち権威の作用が隠れている。
◆権威に対する信仰もまた崩壊したとき、破壊的な虚無が発生した

◆あることを立証する目的でもって、そのために死ぬことは、死ぬことの中へ、ある目的性を、したがって不純さを混入することになる。
◆神の前にただ独りで立って、哲学することは死を学ぶことであるという命題を実現した人はまれである

◆どんな場合でも、目的はこの目的のための手段の使用についてそれを制約するものであります
◆現存在そのものはけっして究極目的ではありません。それというのは、どんな種類の現存在なのか、という問いや、あるいは、何のために、という問いが、この場合永久に消えないからである
◆無制約的なものは、目的を設定する者としてあらゆる目的に、先立っている。それゆえ、無制約的なものは要求せられるものではなくて、それから要求が生まれるところのものである
私が私の行為の根拠や目的を認識するかぎり、私は有限的なものや制約的なもののうちにとどまっている。私がもはや対照的に基礎づけることのできぬものによって生きる限り、私は無制約的なものによって生きているのである。

◆無制約者の意義を特徴づける命題
①無制約性は「在るがままに在ること」ではなくて、反省を通じて不可解な深みから明らかになってくるような決断
 ・無制約性は永遠者、すなわち存在への参与を意味し、絶対的な信頼と忠誠が発生する。それは自然的なものでなくして、あの決断によるものである
 ・無制約性は、生まれつきの性格のうちにも存しない。生まれつきの性格というものは、再生によって変化することがあるからです。
 ・あらゆる種類の激情・現存在的意志・自己主張等は、非常に強大であったとしても、どんなときでも無制約的ではなくて、制約的であり、したがってはかないものなのである
 ・無制約的なものは、隠されていて、ただ私たちが行きづまった場合にだけ、それは沈黙の決断によって人生の道を教えてくれる
②無制約性は、これを実現する信仰のうちにのみ、またこれを見る信仰にとってのみ、現実的に存在する
 ・永遠的な根拠のうちに根ざし、そして単なる人間的傾向や感動でもなければ、習慣や契約遵奉でもないような、無制約的なものの意味における愛が存在するかどうか、ということは疑問である
③無制約的なものは、時間のうちにあって無時間的である
 ・無制約性は、限界状況の経験と、不忠実になるという危険状態とにおいて、時間的に顕になるのであります。
 ・無制約的なものそれ自身は、時間的になるということは断じてない。それが存在する場合、同時にそれは時間と交差している。

◆無制約性の意味の内容は善と悪との対立によってはじめて明瞭になる
◆善と悪の三つの段階
①傾向や感能的な衝動、この世の快楽や幸福、ありのままの現存在、などへ直接に無制限に耽溺することは悪と見なされる
 ⇒善と悪との関係は適法的
②道徳的な要求としての無制限的なものが要求はせられるが、善が感能的な幸福の欲求を故障なく満足させるという条件のもとにおいて可能であかぎりにおいてのみ、前の法則に従順に従うこと、このような本末転倒がこの段階においてはじめて本来的な悪と見なされる
 ⇒善と悪との関係は道徳的
③破壊それ自体への意志、人を苦しめることや残忍性への意志、滅亡さすことへの意志、存在するものや価値のあるもののすべてを破壊する虚無主義的意志などが、はじめて悪とみなされる
 ⇒善と悪との関係は形而上学的
◆私たちは、決断するかわりに、生涯をふらふらとすごしていって、これとあれを結合し、そしてそのことを必然的矛盾として承認したりさえする。この非決断性はすでに悪なのである。
◆三つの段階いずれにおいても、決断がそれ独自の性格をもっております。
・適法的には人間は事故の決断を論理的に正しいものとして基礎づけようとする
・道徳的には、人間は事故の善意志の再生によって、かの転頭から再び自己を取り戻す
・形而上学的には、人間は彼の「愛することができる」ということにおいて「自己が自己に授けられている」ということを意識するようになる。

◆私たち有限的存在者にとってさらに不可避なことは、自分の情熱を統御するための自制の訓練であり、自分の同期が不順であることがあるという理由からして、自分自身を信用しないということ。私たちが革新をもつときこそ、私たちが迷誤に陥るときである。

つづき
第6講







///////////////////////////////////////
◆ブログ◆
文系医療の本棚~本を読んでまとめる~

◆twitter◆
文系医療チームの本棚bot 塚崎匡平

◆facebook◆
塚崎匡平

0 件のコメント:

コメントを投稿