2016年1月6日水曜日

医学の歴史3(ラスト) 小川鼎三

第4章 近世の日本医学
○日本で西洋解剖書が訳されたのは杉田玄白たちの『解体新書』が最初とふつう考えられているが、本木良意はほとんど一世紀を先んじて、おそらく独力で、そういう仕事をなしていた
○後藤良山の高弟である香川修徳は、さらに徹底した実証主義で、それまでの本草家の説を顧慮せず実際のきき目だけを自らの経験によりしらべて、「一本堂薬選」三巻を発表した(1729)
○山脇東洋「蔵志」について
 シナ伝来の五臓六腑説が実物とははなはだ異なることを指摘して、医学は実際のものを自分の目でみなくてはだめだ、と主張したことが重要である。
○法制の歴史でみると、大宝律令では人体の解剖が明文をもって禁ぜられていたようである。律令が効力を失った武家政治の世には、それは明文をもって禁ぜられたのではないが、律令いらいの伝統的な考え方で、人のしたいを毀損するのは不応為のこと、すなわち条理の上から当然なしてはならぬ行為であり、それをなせば罰するというのであった。
○神経のことは玄白以前の南蛮医学や紅毛医学でもときとしてでていて、髄筋または、世奴(せいぬ)と呼ばれていた。世奴はオランダ語の音をそのまま漢字にしたのである。玄白は「神気」の神と「経脈」の経を合わせて新語をつくった
○けっきょくシナに西洋の解剖学が導入されるのは19世紀半ばで、英人ホブソンが1851年に「全体新論」をだした以後である。

○考証派は、あらゆるシナ伝来および日本の古医書を読んで、内容の真偽をただし、比較検討する…考証派が多くの古書を正しい形で復刻した努力は買われなければならない。森鴎外が伝記を書いた渋江抽斎、伊沢蘭軒、小島宝素はいずれもこの学派に属する。
○安政5年(1858)に、将軍家定が病重くて、漢方の侍医たちではだめとわかって、急に洋方の伊東玄朴、戸塚静海の二人が奥医師に任ぜられ、ここで蘭方禁止令がとかれることになる。

○官軍では横浜に軍人病院を設けて傷病兵の救助につとめた。イギリス公使館つきの医者ウィリスがそこで治療にあたった。ウィリスは鳥羽伏見の戦のとき英国公使パークスの推薦で官軍のために戦傷者の治療をなし、薩長軍の信用を得ていた。
○佐藤尚中は東校を退いてとうきょうにしりつびょういんを作るのであるが、辞職の前に変則生の廃止に反対する建言書をだしている。洋方医の不足からみて、医師の速成もこのさい必要であり、聴講や読書をドイツ語でなすのは便宜上のことで、日本人には日本語をもって教えるのが本当であり、変則性への教育も内容は立派なのだから、この制度を存続してもらいたい、というのである。
○(解剖の)政府の許可書には、解剖後は「厚く相弔イ遣ルベキコト」という条件がついており、医学校は盛んな葬送をなし、ミキの家には十両の大金があたえられた。

○ドイツ医学とかフランス医学などという国を単位とするものは、19世紀以降の帝国主義的考え方で、それ以前は「ヨーロッパの医学」があったのみである。
○欧米の医学におそく仲間入りした日本人が、すでに19世紀のうちに、いくつかのりっぱな業績をあげて注目をひいた。その理由の一つとして、細菌学、免疫学は彼の地において、ちょうど新興の気運にあり、また勤勉な日本人が食い込みやすい領域であったことを、考えなければならない。
○政府はさらに明治16年(1883)に医術開業試験規則および医師免許規則をだしたので、漢方医のたてていた医学校もついに潰れた。
○米国の医師養成は以前は徒弟制度であり、はなはだ不備であった。最古の病院は1751年フィラデルフィアにできたといわれる。最初の医学校はやはりフィラデルフィアで独立前の1765年に設けられた。

あとがき
○アメリカの大小病院の科学的能率は、少なからずアメリカ外科医師会の努力に負ふものがある。(この後は是非実物を読んで欲しい)









///////////////////////////////////////
◆Line@ 
ブログの更新をお知らせしたり、
ブログとは別にリアルタイムで良いことつぶやきます。
直接やりとりしたり、勉強しながら、一緒に精鋭になりましょう!
@zvf9388t で検索!


◆ブログ◆
文系医療の本棚~本を読んでまとめる~

◆twitter◆
文系医療チームの本棚bot 塚崎匡平

◆facebook◆
塚崎匡平
 

0 件のコメント:

コメントを投稿