lecture 5
・これまで何度か出てきた言葉、「象徴界」は、シニフィアンが織りなす複雑なシステム。ラカンによれば、この象徴界の作用は、人間生活の全般に及んでいる。その作用は意識されることもあるが、無意識の部分がずっと多い。
・自分のことを鏡に映ったイメージで理解したつもりになった瞬間から、人間は「イメージ=実在物」という錯覚から逃げられなくなってしまった。どんなイメージも、それ単独では、事実として受け止められてしまいかねない。だから、それを虚構化するためには、言葉が必要である。
・最初の言葉は「存在」の代わりに、それを埋め合わせるために獲得される。「母親の不在」という現実を、「ママ」という虚構で覆い隠して安心するための手段でもある。
lecture 6
・人間はエディプス・コンプレックスを通過することで、はじめて象徴界に参入することができる。逆にいえば、この段階を経験しなければ、人間は言葉を語る存在になれない。エディプスなしでは、人間は人間になることすらできない。
・自分というものが十分にできあがっていない子どもは、欲望をあらわすにも「持つ」と「なる」の区別が曖昧。
・母親のペニスになるという幻想に、子供はながく留まることはできない。なぜなら、母親が本当は別のものを欲していることがわかってしまうからである。
・子どもはペニスの象徴(=ファルス)を作り出すことで、母親=世界におけるペニスの欠損を補おうとする。これはペニスの実存性をあきらめて、その模造品で満足しようという、大きな方向転換を意味している。象徴を獲得するということは、存在そのものの所有はあきらめる、ということと同じことを意味している。このあきらめのことを「去勢」と呼ぶ。
lecture 7
・創造界・象徴界・現実界という区分は、互いの位置関係が常に相対的に決まる。どんな認識においても、そこには言うなれば「認識のモード」として、この三界区分が存在する
・「連続性」と「切断性」も同じこと。連続が切断をみちびき、切断が連続を基礎づける、というわけだ。こういう心の二つの「極」は、まさに「去勢」によってもたらされるのではないか。
lecture 8
・鏡に映し出されたイメージの力を借りて、子どもがイメージをはじめて持てるようになる時期のことを鏡像段階とよぶ。
生き延びるためのラカン 斎藤環1
その1の更新から1か月。ひーっ、時が経つのは早い。汗
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