2017年6月25日日曜日

タリバン アハメド・ラシッド その3

前回
その2

第2章
◆若者たちの多くは、これまでの人生をパキスタンのバルチスタンか北西辺境州にある難民キャンプで過ごし、アフガン人のムラーやパキスタンのイスラム原理主義者政党によって国境地帯に設けられた何十校ものマドラサのどこかで、イスラム教育を受け、なにがしか身につけた。
◆かれらを教育したムラーたちは、女性は誘惑的で男性をアラーへの奉仕から引き離す不必要なものだと、強調した。だから、タリバンがカンダハルに来て、女性たちが外で働くことも、学校に行くことも買い物に出ることさえも禁じて、家庭に閉じ込めた際に、マドラサの若者たちの大部分は、こうした措置を何も異常だとは思わなかった。

◆皮肉なことにタリバンは、目的達成のために規律正しく、動機が明確で、非常だという点で、イスラムと戦うために宗教的軍令を布告した十字軍とそっくりである
◆タリバンが圧倒的な勝利を始めた最初の数ヶ月に、神の兵士だけが持つ不敗神話が作り出された。

◆マザリの死は、アフガンのシーア派とその保護者のイランの眼に、タリバンを非難の対象として永遠に映すこととなった。ハザラ人はマザリの死を絶対に許さず、2年後、北部で数千人のタリバンを殺して復讐した。

◆マスードは、カブール南郊でタリバンがハザラに加わるのを許すつもりはなかった。95年3月11日、かれはタリバンへの懲罰的攻撃を開始、タリバンは市街戦で数百人が死んだうえ、市外に追い出された。これは、タリバンが敗北した初めての戦闘だった。

◆前進しながら、タリバンは大量の小火器、戦車そしてヘリコプターまで手に入れ、部隊をもっと多く配置できるようになった。彼らが支配したところでは、住民は武装解除され、道路も通行できるようになったので、すぐ食料品の価格が下がった。長く戦争に苦しんできた人々は驚喜した

◆イスマイル・ハンほど、名声が高いムジャヒディン司令官はいなかったし、ソ連との戦争で、ヘラートほど市民が犠牲になったところはなかった
◆ソ連はペルシャ語を話すヘラート市民は扱いやすく、平和的で、アフガン人のなかでは最も洗練されていると思っていた。
◆1980年、市民たちは前例のない都市蜂起に立ち上がった。市民たちがソ連軍将校とその家族たちを殺したので、イスマイル・ハンは市内のアフガン政府軍兵舎で反乱を起こし、ソ連兵とアフガン人の共産主義将校を殺し、市民たちに武器を配った。ソ連人数百人が死亡した
◆モスクワは反乱鎮圧のためソ連トルクメニスタンから戦車300両を急派して、数日間に2万人以上のヘラート市民が殺され、イスマイル・ハンは新しいゲリラ部隊とともに市外に脱出、数千人の市民がイランに流出した

◆その後の10年間、イスマイル・ハンはソ連占領軍に対する熾烈なゲリラ戦を続け、支配地域では効率的な行政を実施して住民の尊敬を集めた
◆イスマイル・ハンは、93年の時点で、その半分が女生徒の4万5千人の生徒たちを、市内の学校で学ばせていた。支配下の三州でその数は、7万5千人に達していた
◆カンダハルをタリバンが占領したときには、45の学校が閉鎖され、少女たちは自宅で勉強することも禁じられた
◆95年、タリバンの機動部隊がヘラートに突入、イスマイルの部隊はパニックとなり、かれはヘラートを放棄、司令官たちや数百人の兵士とともに、イランに脱出した

◆ヘラート陥落に怒ったカブールの新政府群衆はが、パキスタン大使館を襲撃、政府軍兵士が見ている前でパキスタン大使を傷つけた。カブールとイスラマバードの関係は最悪になり、ラバニ大統領は、パキスタンがタリバンを使ってかれの政権を打倒しようとしている、と公然に非難した
◆ヘラート陥落はラバニ政権の終わりの始まりだった

その4




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