2016年9月6日火曜日

哲学入門 ヤスパース 第6講

前回


◆私たちは人間を歴史として知る。この場合私たちは、伝説を批判的に純化することによって、かつてなされた人間の行為と思惟のうちに存する意味を理解することによって、いろいろな事件をその動機や状況や自然的現実から説明することによって、この歴史を知る。
◆人間は、あらゆる対象的認識とはならないが、しかしそれにもかかわらず、逃れることのできない可能性として顕であるところの自由なのであるかどうか、ということは問題である。
◆人間が自己を本来的に自覚する場合、覚知されるところの非対象的なものであります。私たちは、人間とは何であるかということを、人間について「知られていること」において尽くすことはできないので、むしろ私たちの思惟と行為の根源において経験することができるだけである。
◆私たちが自分に対して色々な要求持つことを認める限り、私たちは私たちの自由を自覚している。私たちが自分に対する要求を満たすか、それとも回避するかどうかは、私たちに関する事柄である。

◆私たちは自分自身で自分を創造したのではない。ヒトはだれでも自分について、自分が存在しないということがありえただろう、と考えることができる。
◆自由を強要することはできない。もし私たちが自由に決定し、私たちの生命を意味深いものとしてとらえるならば、私たちは、自分の存在が自分自身に負うているのではないことを自覚するだろう。
◆自由の絶頂においては、私たちは、自分が自由であるということにおいて、超越者から私たちに授けられているという意識を持つ。かく人間が本当の意味で自由であればあるだけ、それだけ彼にとって神の存在が確実となる。
◆彼が本当の意味で世界から自由になって、初めて世界に対して心をまったく開くようになるとき、また神に結びついて生きるがゆえに、世界に依存しなくてもよくなる時、初めて人間が神に関係されるさせられているということが彼に分かってくる。
科学的理論は全体的人間についての絶対的認識にまで昇りゆこうとすることによって本来の人間を見失うものであり、またこれらの学説を信仰するものにおいて、人間の意識を、究極において人間性そのものを消滅の限界にまで追いやるものであ
◆人間に関する認識を追及することは、きわめて重要。私たちは何を、いかにして、またいかなる範囲内において知るかということを、また可能的なものの全体に即して見ると、私たちの知ることがいかに少ないか、そして本来の人間存在はこのような認識においてはどうしても到達せられぬものであるということを、方法的に知るから。
◆さらにかくすることによって、人間の仮象知によって人間を覆い隠すことにおいて生ずる危険が避けられる。

◆人間はどこから導きを得るかということは、人間存在についての重大な問題である。人間の生活は動物の生活のように世代の順に従って、自然法則的に同じように繰り返されて過ぎていゆくものではなくて、人間の自由は、人間存在の不安定性とともに同時に、人間がなお本来あり能うところのものとなるチャンスを、人間に開くものである。
◆いわばある素材と自由に交渉するように、自分の現存在と自由に交渉することは、人間に与えられていることである。そこで初めて人間は歴史を持つ。

生涯のうちに起こるいろいろな決定を要する問題に関して長い間疑い迷った後で、突然確信が生まれるということは、いろいろな自叙伝の中で報告されている。このような確実性は途方に暮れるような動揺の後に起こったところの行動能力の自由である
◆このような自由を決定的に知れば知るほど、それだけ人間存在の根拠である超越者も彼にとっていっそう明白になる
◆神による導きにはたった一つの様式しか存在しない。それは自由そのものを超えゆく途上において生ずる。もしここの人間の心が、伝統と環境のうちから彼に向かってくるところのいっさいのものに対して開かれているならば、彼にとって自己確認として現れるもののうちに、神の声が存在する。
◆人間は、自由で正直に判断する自己認知や自己提訴や自己肯定として、間接的に神の判断を見出すのですが、それは決して一義的=決定的なものではなくて、常に二義的なものである。

人間の判断は初めから誤っている。私達は、自分の道徳的行為や自分のいわゆる独善などによる自己満足のうちにさえ、すでに独りよがりの独断が存することを、仮借なく洞感しなければならない。
たとえそれがこの世界において彼に得られる唯一のものであるとしても、結局は決定的な判断ではない。決定的なものはおそらく神の判断である。
自己自身について下された判断としての個人の全くの独断というものは、実際においては、かつて現実存在したことはほとんどない。常に彼にとって他の人の判断が重要な役割を果たしている。

◆普遍妥当的な倫理的要求は自己の信念に対して確信を持っております。モーゼの十戒以来、それは神の現れ方の一形式である。
◆しかし自由に理解された倫理的な命令に対する服従の真剣さは、まさにこの自由という事において、超越者の言葉を聴くことと結びついているのが常である
◆個人が、彼が行うべきこととして聴くと信ずるものは、いかに確実であっても、依然として疑わしいものである。この神の導きの声を聴くところに聞くことの本質のうちには、聴き誤りという迷誤がひそんでいる。
◆神の導きのもとにおいて見られるような道の最も純粋な明晰さといえども、この道こそは万人にとって唯一の真の道であるというような自己確信となってはならない
◆絶対に真理であるという誇りは、この世界における心理にとっては、本当の意味で破壊的な危険だからであります。刹那的な革新のうちに、絶えず頭健常な心がかけてをとってはならない
◆反省してみて初めて、不可解の導きに当面して非常に驚くことがある。しかしこのような場合でも、神の導きが一個の所有物とならない限り、確信は存しない

◆世界内においてせいぜい直感できるのは、人格と人格との交わりである。したがって超越者との関係は人格神との出会いにおいて直感的に顕になります。神性は、人間的存在という姿において私たちと関係させられ、それと同時に、私たちはこの神と語ることのできるあるものへ高められる
◆本来の自己存在における神の救いは一者の救いであって、この自己存在はこの救いのうちにあるという点で、自己が徹底的に依存的であることを知る
◆ 人生が透明になったところの人間にとっては、あらゆる可能性は神から授けられている。かくてそれぞれの状況はいずれもそのうちに存在し、成長し、挫折するところの人間の自由のための課題である。しかしこの課題は内在的な幸福目的として十分に規定されうるものではなくて、むしろ超越者によって、すなわちこの唯一の現実性によって、また超越者においてあらわになる愛の正確性によって初めて明瞭になる。
◆すなわち愛は、その理性から無限に開かれて、存在するもの見、世界の事象のうちに超越者の暗号を読むことができるんであります。
◆僧侶は神に対する服従と、教会とか聖書とか、直接の啓示とみなされる戒律などのような、この世界の中で現れている審判に対する服従とを、混同している
◆信頼するに足る権威の法令や命令において支えをつかもうとする場合には、それを誰かから聞くかという当惑が存在する。それに反して、現実全体のうちから聞くことのうちには、個人の責任負担の飛躍的なエネルギーが存在する
◆人間存在の位階は、それが聴くことにおいて自己の導きを獲得してくる源泉の深さによる。人間であることは人間となることである。








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