2017年3月29日水曜日

平成30年診療報酬・介護報酬同時改定に向けて

ちぇきらー。

【平成30年度】中央社会保険医療協議会(中医協)総会資料まとめ【同時改定】
https://matome.naver.jp/odai/2148515074542136001

【オプジーボ・キイトルーダ】中医協薬価専門部会 薬価制度の抜本改革資料まとめ【ハーボニー・高額薬剤】
https://matome.naver.jp/odai/2148541420388691901


◆ちなみに平成28年改定
【平成28年度】中央社会保険医療協議会(中医協)総会資料まとめ【診療報酬改定】
https://matome.naver.jp/odai/2144582271177357901


◆その他
高額療養費制度70歳以上の自己負担限度額の見直し経緯まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2148219460685542901



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2017年3月26日日曜日

FISH法について調べたので

◆FISH法
微生物学分野では,特定属種の細菌を検出するにあたり,菌体内のrRNAを標的とした蛍光in situ ハイブリダイゼーション(Fluorescence in situ hybridization: FISH)法が普及しつつある

細菌の rRNA は,界,科,属,種等のレベルで共通な塩基配列をその中に含んでおり,分類・同定にはその塩基配列がよく利用される.

 またrRNAは細胞内含量が高いため,FISHの標的として一般的に用いられている.

本方法は細菌のrRNAの塩基配列に特異的な蛍光標識オリゴヌクレオチドプローブを細胞内でハイブリダイズさせ,その蛍光を蛍光顕微鏡下で検出・計数する ものである.

蛍光色素で標識したプローブとハイブリダイズした細菌は,励起光を照射すると色素由来の蛍光を発する.

◆ハイブリダイゼーション(Hybridization)
原義としては生物の交雑あるいは雑種形成のこと。

しかし現代では、核酸(DNAまたはRNA)の分子が相補的に複合体を形成することをハイブリダイゼーションといい、分子交雑(ぶんしこうざつ)ともいう。

特に、遺伝子の検出・同定・定量や、相同性の定量のために、人工的にこれを行う実験方法を指すことが多い(通称「ハイブリ」)。



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2017年3月24日金曜日

青木新門 納棺夫日記 その4 ラスト

前回
その3

◆<死>についていくら生者が頭で考えても似て非なる死のイメージを生むだけなのである。似て非なる死の概念は、現実の死に直面したとき何の役にも立たない概念となる。
◆問題なのは、どこに視点を置いて死体と対峙していたかということ。問題は、死や死体や死者を前にして、己の生死の問題として、どこまで真摯に関わっているかということである
◆体で悟った現場の知を、近代思想を身に付けた世に言う知識人たちは、理性で理解しようとするから永遠に心の理解が得られないだけなのである

◆宗教の信じるという行為の陥りやすい欠陥は、信者の科学的知識の範囲を超えた事象を全て己の信じる宗教のせいにしてしまうところにあるようだ。だから熱心な信者にも、科学の進歩に対応した善知識の聴聞が常に必要とされてくる

◆ケビン・カーターの写真
















◆昔、瞑想と禁欲の世界に生きる行者たちの多くは、死期をさとると断食の行に入っていったそうである。断食というのは、その字の通り食を断つことであるが、最初は五穀を断って木の実、木の根のみを食べる木食の行から入り、やがて葉先の露のみの完全な断食へと入ってゆく
◆「根源的現象に出会うと、感覚的な人たちは驚嘆の中へ逃げ込むし、知性的な人たちは最も高貴なものを最も卑俗なものと結びつけて分かったと思うとする」ゲーテ

◆りんごを分析し詳しく解説できても、りんごを食べたことがなければ、その味は分らない。たとえ分かったとしても、理屈では伝わらない。しかし世に言うエリートはしたり顔で伝えようとするのである
◆生や死は、現場の事実であって正にりんごを食べることなのである

◆詐欺の本質は成りきる才能だから、簡単に悟った尊師に変身し、事故の欲望は仏の本願とすりかえられ、何をやっても仏や神の意思であって自分の責任ではなくなってしまう
◆こうした宗教が出てくるのも、既存の宗教側にも、多くの原因がある。その最大の要因は、「悟り」を説きながら悟りに至る努力もしない聖道門の僧職者たちや「信」を説きながら真に阿弥陀を信じようともしない浄土門の僧侶たちが、教条的に「信をとれ」と言ったりしているところに起因する
◆「なぜ、修行者たちは同一のことを語らないのか。まことに真実はただ一つであって、第二の真実というものはない。だからその真実を知ったものは争わない」スッタニパータ(原始仏典)
◆寿命が延びたのは確かだが、その裏側には「生の意味」の喪失が、暗く張り付いていた
◆死に背を向けてゆく生の追求は、さらなる生の喪失なのであった





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2017年3月23日木曜日

先進医療関係について調べてみた

◆先進医療
有効性及び安全性を確保する観点から、医療技術ごとに一定の施設基準を設定し、施設基準に該当する保険医療機関は届出により保険診療との併用ができることとしたもの
将来的な保険導入のための評価を行うものとして、未だ保険診療の対象に至らない先進的な医療技術等と保険診療との併用を認めたものであり、実施している保険医療機関から定期的に報告を求める

◆先進医療にかかる費用⇒全額自己負担(企業が負担するケースあり)
総医療費が100万円、うち先進医療に係る費用が20万円だったケース
先進医療に係る費用20万円は、全額を患者が負担します。
通常の治療と共通する部分(診察、検査、投薬、入院料 *)は、保険として給付される部分になります。

◆評価療養と選定療養
評価療養
・先進医療
・医薬品、医療機器、再生医療等製品の治験に係る診療
・医薬品医療機器法承認後で保険収載前の医薬品、医療機器、再生医療等製品の使用
・薬価基準収載医薬品の適応外使用
(用法・用量・効能・効果の一部変更の承認申請がなされたもの)
・保険適用医療機器、再生医療等製品の適応外使用
(使用目的・効能・効果等の一部変更の承認申請がなされたもの)
選定療養
・特別の療養環境(差額ベッド)
・歯科の金合金等
・金属床総義歯
・予約診療
・時間外診療
・大病院の初診
・小児う蝕の指導管理
・大病院の再診
・180日以上の入院
・制限回数を超える医療行為

◆先進医療AとB
○先進医療 A
1 未承認等の医薬品若しくは医療機器の使用又は医薬品若しくは医療機器の適応
外使用を伴わない医療技術(4に掲げるものを除く)
2 以下のような医療技術であって、当該検査薬等の使用による人体への影響が極
めて小さいもの
(1)未承認等の体外診断薬の使用又は体外診断薬の適応外使用を伴う医療技術
(2)未承認等の検査薬の使用又は検査薬の適応外使用を伴う医療技術

○先進医療 B
3 未承認等の医薬品若しくは医療機器の使用又は医薬品若しくは医療機器の適応
外使用を伴う医療技術(2に掲げるものを除く。)
4 未承認等の医薬品若しくは医療機器の使用又は医薬品若しくは医療機器の適応
外使用を伴わない医療技術であって、当該医療技術の安全性、有効性等に鑑み、
その実施に係り、実施環境、技術の効果等について特に重点的な観察・評価を要
するものと判断されるもの。


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ムンテラという言葉の意味が分からなかったので調べてみた

ムンテラという言葉が不意に出てきて、
意味がハッキリわからなかったので、
ちょっとググって調べてみた。

◆看護用語辞典 ナースpedia
https://www.kango-roo.com/word/3459
ムンテラ(むんてら)とは、病状説明のことである。ドイツ語のMund「口(くち)」+Therapie「治療」を組み合わせたもの。

◆通信用語の基礎知識
http://www.wdic.org/w/SCI/%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%A9
似たものに、英語でインフォームド・コンセントと呼ばれる治療方法があるが、こちらは日本語で「説明と同意」と訳されているように、患者に理解してもらい、(診療に)同意を求める、という点で、いわゆる説明のみを示すムンテラとはニュアンスが異なる。

◆ムンテラとインフォームド・コンセント 奥道 恒夫
http://www.hiroshima.med.or.jp/ishi/kinmui/docs/2258k.pdf
私が医学生の頃は、臨床倫理に関する講義を受けた記憶がありません。また、医師免許を取得後、少なくとも昭和の時代においては臨床倫理の問題で悩まされたことはありませんでした。
その背景に、「医師と患者の間に深い信頼関係があった」というのではなく、ムンテラ(MundTherapie)と称して「私の治療法に従いなさい」という風潮があり、治療法の決定権は医師にあるのが一般的でありました。そこには、倫理の問題もクレームもましてや医療訴訟とは全く無関係な時代でした。

◆ムンテラとインフォームドコンセントの違いについて 酒井 穣
http://kaigolab.com/column/8713
医師が「ムンテラ」を行うときは、頭の中には、患者を説得する落としどころがあるわけです。病気に関して、必要最小限のことを、相手の知力に合わせてわかりやすく説明し、患者には、医師の考える治療法が最善であると言えるロジックを伝えます。
医師としては、訴訟リスクが高そうだと見ると「インフォームドコンセント」に動き、それ以外は「ムンテラ」で対応するといったところが現実になってきます。医師も、この状態が良いとは思っていないと思いますが、このあたりの対応で精一杯でしょう。「インフォームドコンセント」に時間がかかりすぎて、患者の治療という本来の仕事がおろそかになってしまうのは本末転倒です。

◆レファレンス協同データベース
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000013017
一般にムンテラは医師が患者に対し疾患の診断、治療などに関して説明、説得することであるが、反面その場を取り繕うという意味もあった。しかし現在では概念を拡大し、良好な医師患者関係を作るための手段と考えるようになった。すなわち、治療者の疾患に関する説明などにおいて簡易精神療法の受容、支持、保証のどれに該当するかを治療者自身が常に意識して患者と会話することは、従来いわれているムンテラをさらに積極的肯定的に把えようとするものである。『看護学大辞典』


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2017年3月22日水曜日

青木新門 納棺夫日記 その3

前回
その2

◆あらゆる宗教の教祖に共通することは、その生涯ある時点において、<ひかり>との出合いがあることである。
◆今日の既存宗教教団などに見られる混迷は、生き方の会議ばかりが忙しく、行き先が明確でないところに問題があるようだ。イメージが、はっきりしていないのだ。

◆あらゆるものへ感謝があふれ出る現象を、回向のことであると言ったが、この回向こそが、浄土真宗の根幹をなす思想なのである
◆親鸞は、「教行信証」の冒頭に、
 謹んで浄土真宗を按ずるに二種の回向あり
 一つには往相、二つには還相なり
 と、浄土真宗の最大の特徴は、二種の回向であると書き出している
◆親鸞以前までの回向は、自分の積んだ善根を仏の方へさしむけることであったが、親鸞は逆に、仏の方から衆生の方へ向かうのが回向であるとした。
◆仏派の感謝が往相回向で、その仏からの慈悲が還相思考であるとし、この二種の回向がおのずから同時にはたらく現象を、光如来の本願ととらえた
◆親鸞の思想の大きな特徴の一つは、光如来に出合って<死即仏>となること。如来によって死即仏となるから、引導もいらないし、位牌も、手甲脚絆も、六文銭も、杖もいらない。三途の川も閻魔大王も関係ないから、追善供養も必要ない。だから真宗では追善供養と言わないで、法要とか報恩講といっている。
◆しかし、中有まで完全に否定したのではない。
◆我が国のほとんどの宗教では人が死んでも霊魂がさまようことが前提となっている。しかし、親鸞は何日間も、何カ月間も、さ迷う霊魂に関しては完全に否定していた
◆さんたんたる景色(現世)を横目で見ながら、すきとおる空(浄土)へと直行するわけで、死はどこにもない。そこには死もないから<往生>という。死さえなかった。あったのは大涅槃だけであった。
◆釈迦の説いた仏教の教理は、すべて実践との関係においてのみ意義が認められているのであって、実践に関係の無い形而上学の問題には、釈迦は答えられていない

◆親鸞の阿弥陀信仰は、どのような者でも<無碍なる不可思議な光>に必ず出合えるという絶対の確信からきている。そして中途半端な修行など、当時の庶民の生活苦よりお粗末であることを、比叡山の山中で二十年もいやというほど見せつけられてきたのである
◆釈迦のような苦行をするならともかく、中途半端な修行の途上にいながら、さも覚者のような顔をして成仏の引導まで行っている。このことは、八百年前の親鸞の時代も今日も、さして変わりなさそうである

◆詩人たちは一様に、物への執着がなく、そのくせ力もないのに人への思いやりや優しさが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋で美しいものにあこがれながら、愛欲や酒に醜く溺れ、死を見つめているわりに、以上に生に執着したりしている
◆生を維持するために他の生を犠牲にして生を保ってゆくしかない。そんな中で、菩薩が人間の肉体を備えたままその生を維持してゆくこと自体不可能なことである

◆源信、法然、明恵、道元、一遍、親鸞、これら高僧たちはおしなべて、十歳未満で父母との別離に出会っている。蓮如も、幼い日に母との別離があった。こうした幼い日の悲しみの光は、いつまでも残り、その人生に大きな影響を与えてゆく

◆今日の科学は、哲学や宗教をのり越えようとしている。とは言っても現在のところ、哲学や宗教が停滞しているためそのように見えるだけで、実際は科学でわかった範囲など微々たるもので、のり越えるどころではない
◆宗教がどれくらい科学の立証に耐えるかによって、今後の宗教が歴史に残るかどうか決まるかもしれない
◆<死>は医者が見つめ、<死体>は葬儀屋が見つめ、<死者>は愛する人が見つめ、僧侶は<死も死体も死者も>なるべく見ないようにして、お布施を数えているといった現状があるかぎり、今日の宗教に何かを期待する方が無理と言えよう。
◆宗教が現場の死生感を説くことができなくなったとき、その宗教は生気が失われ、滅びへ向かうのは当然である
◆死の不安におののく末期患者に安心を与えることができるのは、その患者より死に近いところに立たない限り、役に立たないということになる。たとえ善意の優しい言葉であっても、末期患者にはかえって負担となる場合が多い

つづき
その4




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2017年3月20日月曜日

青木新門 納棺夫日記 その2

前回
その1

◆人は誰もが、死ぬ時には美しく死にたいと思っている。しかし美しく死ぬとはどのようなことかはっきりしない。
◆「ところで君、どう思うかね。今、しらゆり会(献体登録の会)に登録されている人の50パーセントはクリスチャンだよ、信徒1パーセントにも満たないこの地でだよ。<われ閉眼せば賀茂川に入れて魚にあたうべし>と言ったのは親鸞だろう。その親鸞の浄土真宗の信徒が80パーセントの北陸でだよ」

◆最近中国でこんな事件があったと、新聞に載っていた。中国の農村で、当局が土葬を禁止し、火葬にするとのお触れを出したところ、火葬されれば天国にいけなくなると、老人が次々に自殺した事件である
◆三島の死は社会から疎外された近代知識人特有の死であると言える。実際、自殺ほど社会に迷惑をかける死に方はない。それは、自殺という行為が共同社会からの疎外された者の孤独な解決方法に起因しているからであろう
◆わが国経済の高度成長とともに、枯れ枝のような死体は見られなくなっていた。今日、事故死や自殺以外は、ほとんど病院死亡である。昔は口から食べ物がとれない状態になったら、枯れ枝のようにやせ細ってゆくしかなかったが、今では点滴で栄養が補給されるため、以前のようにやせ細った状態にならない。

◆死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぼっちで死と対峙するようにセットされる。しかし、結局は死について思うことも、誰かにアドバイスを受けることもなく、死を迎えることとなる
◆集中治療室などへ入れられれば、面会も許されないから「がんばって」もないが、無数のゴム管やコードで機器や計器につながれ、死を受け入れて光の世界に彷徨しようとすると、ナースセンターの監視計器にすぐ感知され、バタバタと走ってきた看護婦や医師によって注射をうたれたり、頬をパタパタ叩かれたりするのである
◆特に我々が生死を云々する場合、<生>にスタンスを置いての一方的な発言であって、<死>にスタンスを置いての発言はありえない。しかし、釈迦や親鸞は、生死を超えたところから言葉を発している
◆視点の移動をしないで、<生>にだけ立脚して、いくら<死>のことを思いめぐらしても、それは推論から仮説でしかないであろう。死後の世界へ旅立つことが、白い巡礼の衣装をまとい、杖をもち、六文銭を首にかけ三途の川を渡ることだというような発想は、生の思考の延長上から生まれたものにほかならない
◆理論物理学などでは、仮説の新理論が実証確認できなければ歴史から抹殺されてしまうが、死後の世界の仮説は、奇跡に頼るしか実証方法がないため、あらゆる仮説が生き残り、巧妙に組み立てられた仮説や神話などは、何千年も世にはびこることとなる。

◆会葬者も、遺体に合掌したり、遺影に手を合わせたり、祭壇や霊柩車に合掌したり、火葬場の煙突の煙にまでに合掌したりしている。ところが、肝心のご本尊にはあまり手を合わせていない。僧侶の唱えるお経は、何を言っているのか分らないし、死者がどこへ行ったか分からないから、思いつくまま手当たり次第手を合わせている
◆葬礼儀式と言う仕事に携わって困惑し驚いたことは、一件深い意味をもつように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知ったことである。迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀式として形式化できたものだと思うほどである
◆今日の仏教装儀式に見られる姿は、釈迦や親鸞の思いとは程遠い物であろう。極端に言えば、アニミズムと死体崇拝という原始宗教と変わらない内容を、表向きだけは現代的に行っていると言っても言い過ぎではない

続き
その3



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2017年3月16日木曜日

青木新門 納棺夫日記 その1

知ってる人は知ってると思うが、
本木雅弘主演で映画化された「おくりびと」の原作の本である。

私も「おくりびと」は昔見たことがあったので、
その原作小説なのかなぁという程度で読み始めた。

が、全然違った。

本編は全3章、文庫にして140ページという手の伸びやすいサイズ。
1章は確かに「おくりびと」の原作となるようなエッセイだった。

この話自体、私はそういう職業の人にスポットライトを当てた創作話だと思っていたが、
実際は作家であるこの作者自身が、経営していた店が潰れて、
仕事を探し、葬儀屋へ就職した経験を基にしたエッセイだった。

問題は第2章以降である。

そもそも早稲田を中退して文学の道を目指していた青木氏。
目の付け所も考える力も素養がある。

そんな氏が仕事で日々、死と向き合う。
大概の人はそこで目を逸らす。
そこにある亡骸をモノのように考え、慣れようとする。

ただ、作者は見つめた。
「我々はどこへ行くのか?」
そして深く深く悩み、考察していく。

今回は第1章です。


◆湯灌というのは、長い間寝たきりの状態で死亡した死者を送り出すとき、せめてきれいな体にしてあげようと、全身を洗い清めた風習である。今日では、だんだん病院脂肪が多くなり、アルコールで吹くという方式に変わってきている。
◆葬儀屋の社会的地位は最低であるし、納棺夫や火葬夫となると、死や死体が忌み嫌われるように嫌われているのが現状である
◆職業に貴賤はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実がある限り、納棺夫や火葬夫はみじめである
◆死をタブー視する社会通念を云々していながら、自分自身その社会通念の延長線上にいることに気づいていなかった。社会通念を変えたければ、自分の心を変えればいいのだ。心が変われば、行動が変わる
◆自分の職業を卑下し、携わっているそのことに劣等感を抱きながら、金だけにこだわる姿勢からは、職業の社会的地位など望むべきもない。それでいて、社会から白い目で見られることを社会の所為にし、社会を恨んだりしている。己の携わっている仕事の本質から目をそらして、その仕事が成ったり、人から信頼される職業となるはずがない

◆「ケガレ」の内容は、既に古代の「延喜式」の中に細かく規定されている。その中でも、特に死穢(しえ)と血穢(けつえ)は穢れの最もたるものとされている
◆死穢とは、死や死者を不浄なものとしてとらえ、死や死者に纏わる一切のものは不浄なものとされる。また血穢は、怪我などの出血の「けが」の意味もあるが、女の出血(月経)の穢れが強調され、やがて女性そのものが穢れた存在とされてゆく
◆糞尿も汚穢(おわい)ということで穢れの対象であった
◆どうしても隔離したり遠ざけたりできない場合に、不浄や穢れを浄化する儀式としてオハライやキヨメを行い、一瞬にしてハレに転換する
◆なぜキヨメに塩なのかという問いに「古事記」に出てくる神話によるとする説もある

◆西洋の思想では、生か死であって<生死>というとらえ方はない。その点東洋の思想、特に仏教は、生死を一体としてとらえてきた
◆死の占める割合が多い時代では、死は多く語られ、時には美化される傾向にあり、今日のように日常生活の中にも思想の中にも死が見当たらないような生の時代には、死は敗北であり悪であるとする傾向になる。
◆既存の宗教は、時代の変化についていけないようである。人生の四苦である生・老・病・死を解決することが本来の目的であったはずの仏教が、死後の葬式や法要にスタンスを移し、目的を見失ったまま教条的な説教を繰り返しているというありさまである。

つづき
その2




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2017年3月15日水曜日

坂の上の雲1~8巻 司馬遼太郎

まとめというか、
気になったフレーズの抜粋からのさらに抜粋です。

【1巻】
◆青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを知恵が支配していない。
「それが、若いことのよさだ」
と、子規は歩きながら言った。

【2巻】
◆「相変わらずの獺祭じゃが」
と、子規は、自分の部屋のきたなさについてそういった。獺という水辺に棲むいたち科の動物は、その巣に雑多な魚をあつめて貯蔵する習性があるが、古代中国の詩人はこれをもって、あれは魚を祭っているのだ、とした。子規はそれを踏まえ、
「あしの巣もそうだ。本や反故を散らかしてそれを祭っているのだ」と言い、まだ大学生のころからその居住している部屋を「獺祭書屋」と名付けていた。


【3巻】
「世人は悪い事をせねば善人だと思うているが、それは間違いだ。いくら悪人だって、悪い事をする機会が来なければ悪いことをするものではない。僕だって、今まで悪いことをしないのは、機会がないからだ。ずいぶん残酷な事もやるつもりだがね」
子規ははどういうつもりでこれをしゃべり、書いたのかわからない。どうやら戦争ということがずっと念頭にあったらしい。
◆国家というのは基本的に地理によって制約される。地理的制約が国家の性格の基本の部分をつくり、そしてそれらはきわめて厄介なことに、その時代時代の国家がもつ意思以前のことに属する。

【4巻】
◆明石元二郎とレーニンの葉巻のくだりは、非常に日頃注意すべき話。
◆農耕民族と狩猟民族の有能無能の価値基準の考察は秀逸。
◆あとやっぱり精神論も大切だけど、技術を更新していかないとダメということがよく分かる

【5巻】
◆庶民が、「国家」というものに参加したのは、明治政府の成立からである。近代国家になったということが庶民の生活にじかに突き刺さってきたのは、徴兵と言うことであった。国民皆兵の憲法のもとに、明治以前は戦争に駆り出されることのなかった庶民が、兵士になった。近代国家と言うものは「近代」という言葉の幻覚によって国民に必ずしも福祉をのみ与えるものではなく、戦場での死をも強制するものであった。
◆「参謀は、状況把握のために必要とあれば敵の堡塁まで乗り込んで行け。机上の空案のために無益の死を遂げる人間のことを考えてみろ」
◆イギリスが、石炭積み込みを妨害した。先のタンジール港の場合、イギリス商人が、ハシケとザルを買い占めてしまって艦隊はひどく積み込み作業に不自由したが、そういうたぐいのことが無数に行われるのである。イギリスは日本にとってはこれ以上の同盟国はなかったが、ロシアにとって悪魔であった。
◆戦争は政治がおこなう最大の罪悪であるとはいえ、その罪悪単に罪悪に留めず、いっそうに頽廃させるのもまた政治である。
◆「ともかくこの惨烈なの戦争が終わったのだ」という開放感が、両軍の兵士に、兵士であることを忘れさせた。このまだ交戦中であるはずの段階において、両軍の兵士がこのように戯れながらしかも一件の事故も起こらなかったというのは、人間というものが、本来、国家もしくはその類似機関から義務付けられることなしに武器をとって殺し合うということに向いていないことを証拠だてるものであろう

【6巻】
◆津川謙光大佐の連隊のごときは、津川が負傷し、塚本という少佐が連隊の指揮をとり、とるだけでなくみずから小銃をとって射撃し、やがては砲弾のために五体がみじんに砕けた。
◆二流もしくは三流の人物に絶対権力もたせるのが、専制国家である。その人物が、英雄的自己肥大の妄想もつとき、何人といえどもそれにブレーキをかけることができない。
◆本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ。
という電文を海戦寸前に書いた秋山真之の勝敗計算には、このボロジノ型の新戦艦が波の高い状況下でどうなるかということも要素のひとつになっていた。
◆ロシアには、3,500万の農民がいる。このうち、
「農奴」
といわれているロシア特有の階層が、二千万である。農奴というのは人間であるが、しかし地主貴族の完全な私有物であり、それを地主の都合で売買することもできる。げんに売買された。
◆そばにいたドイツ士官が明石にフランス語で話しかけて、「貴官は、ドイツ語ができますか」と、問うた。明石は、フランス語がやっとです、というと、そのドイツ士官はたちまち明石を無視し、傍らのロシア士官とドイツ語で非常に機密を語り始めた。明石はその会話をことごとく記録した。
◆情義的な動機で仕事をしてくれる者より、むしろ金だけを目的とした職業的スパイのほうがはるかに役に立った
◆古来、この強大な帝国はその属邦に内乱がおこれば、他の民族をしてその民族を征伐せしめる。ポーランドが反乱すれば、国内のユダヤ人に兵器をもたせて鎮圧させ、ゲオルギアが反乱すればアルメニア人に討伐させるなどといったやりかたのために、各種族はたがいに仇敵視し、そういう習癖が不平党各派の対立にまでもちこまれている、と明石はいう。
◆人類に正義の心が存在する以上、革命の衝動はなくならないであろう。しかしながら、その衝動は革命さわぎはおこせても、革命が成功したあとでは通用しない。そのあとは権力を構成してゆくためのマキァベリズムと見せかけの正義だけが必要であり、ほんものの正義はむしろ害悪になる
◆新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう
◆どこの国に行っても、軍人というのはうんと甘やかされているか、すっかり忘れられているという存在であることを知っています
◆ロシア名称というのは水兵たちはおぼえにくいため、暗記用の日本語をつくった。たとえば、「アレクサンドル三世」は呆れ三太にし、「ボロジノ」はボロく出ろ、「アリョール」は蟻寄る、「ドミトリー・ドンスコイ」が、ゴミ取り権助といったぐあいにおしえた

【7巻】

天才は型の創始者であり、戦術家としてのナポレオンは自分の編み出した型として存在した。かれはその型によってヨーロッパを席巻し、その方が敵に対して通用しなくなったときに、型とともにほろんだ
維新後わずか三十年で各国水準なみの技術効果をあげたいという欲求は当然ながら真似になった。世界の最優秀の技術のサンプルをことごとくあつめ、その優劣を検討しつつ国産品を生み出すやりかたである。
このやりかたは、無難でいい。
しかしながらこのやりかたの致命的な欠陥は、独創で開発するばあいとちがい、その時点における水準を凌駕できないことであった。
戦術原理を諳んじている秀才であったために、その玄人常識のほうにとらわれた
薙射という用語はこの当時の機関銃操法にはなかった。津野田自身の手記では、
「いっせいに、薙げえっ」
という号令をかけた。
軍隊秩序が喪失することは、端的にいえば将校の権威が失墜することであった。
ウドサァ
「この国家に金や兵が備わり、その独立が十分に出来ていたら、戦争などをするには及びません。そんなものがないから、気が狂ったようにこんな戦争をしているのです」
日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に、報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。
戦時における兵卒の持続的服従心というのは士官が有能であるということによってのみ成立するものであった
戦闘力を集中するということが戦術の鉄則であり、戦闘力の分散はもっとも忌まれることであった

【第8巻】
秋山真之は終生、
「最初の三十分間だった。それで対局がきまった」
と語った。さらにこうも語っている。
「ペリー来航後五十余年、国費を海軍建設に投じ、営々として兵を養ってきたのはこの三十分間のためにあった」

全巻セットでもかなりお手頃。



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2017年3月8日水曜日

夢日記

不思議な夢を見た。

目の前に初老の女性。


女性「私は乳がんを患って、治療し、その後50年生きました」


私「良かったですね。治療が成功したんですね」


そうすると、女性は悲しそうな表情で、


「でも、乳がんを患った業(ごう)は持ち続けています」


そこで目が覚めた。

病の原因を自分の犯した罪などに求める、
因果応報的な考え方は昔からあった。
ただ、その考え方は未だに根強い。

「日ごろの行いが悪いから」
「言う事を聞かないから」
「ああしなかったから」

確かに一理を突いているところもあると思う。
後ろめたいことをすればストレスが溜まるだろうし。
何かの不摂生に繋がることもあるだろう。

徳を積むようなことをすることで、
免疫力が高まったり、精神的に快方に向かうこともあるかもしれない。

ただ、こういった言い方をする場合、
多くは病気にかかった時に、科学では割り切れない部分を
このように処理してきた例が多いのではないか。
それが時には宗教・迷信などともつながってきた。

科学が発達するとともにその範囲は縮んできたが、
「死」が無くならない限り、無くなるということはないだろう。
いくら抗がん剤が発達しようとも。

逆を言えば、病気とは自らの行いや考えを振り返るキッカケになる。
そこに科学的な因果関係はなくても、
精神として、一つの人間個体として、一連の活動になるのだろう。

徒然と。

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