2016年10月31日月曜日

ラヒホイタヤ

先般、リハビリテーション・ケア合同研究大会 茨城 2016に参加した際に、
筒井孝子 兵庫県立大学大学院経営研究科 教授
のお話を聞いたのですが、その中で初めてラヒホイタヤという言葉をちゃんと認識しました。

ラヒホイタヤ wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%92%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%A4

簡単に言うと、フィンランドの医療福祉の共通基礎資格のことなのですが、
↓のような資格を全て1つの資格に統合するというものです(wikiより)。

  • 保健医療分野
    • 准看護師 (フィンランドにおける旧 perushoitaja)
    • 児童保育士 (フィンランドにおける旧 lastenhoitaja)
    • 歯科助手 (フィンランドにおける旧 hammashoitaja)
    • ペディケア士 (フィンランドにおける旧 jalkojenhoitaja)
    • リハビリ助手 (フィンランドにおける旧 kuntohoitaja)
    • 精神障害看護助手 (フィンランドにおける旧 mielenterveyshoitaja)
    • 救急救命士・ 救急運転手 (フィンランドにおける旧 lääkintävahtimestari‐sairaankuljettaja)
  • 社会サービス分野
    • 知的障害福祉士 (フィンランドにおける旧 kehitysvammaistenhoitaja)
    • 家政婦 (フィンランドにおける旧 kodinhoitaja。毎日新聞では「ホームヘルパー」表記)
    • 日中保育士 (フィンランドにおける旧 päivähoitaja)
 
これが2015年に日本で導入されるかされないかで議論になっていたのだとか。
全然知らなかったぁぁ。情報感度低いなぁ。。
多分見たことある気がするけどスルーしてた。
 
このクロスライセンスどころか、
資格の枠を取っ払うというこの制度は、
人口減少の中でいずれ重要度が増してくると思います。
 
色々できるようにしないと人が足りないからです。
統合される資格の人からすればアイデンティティを失う(新たなアイデンティティを与えられますが)ことになるので当然反対が出て来るでしょう。
いかにこの資格に組み込まれないようにする、という訳分からないバトルが始まることが容易に予想できます(多分もう始まっているのでしょうが)。
 
ラヒホイタヤ、ラヒホイタヤ、10回唱えて午後も頑張りましょう。
 
 
いくつか論文を。
 
地域包括ケアシステムに必要とされる人材の考え方 ―フィンランドの社会・保健医療ケア共通基礎資格ラヒホイタヤを手がかりに― 森川美絵 国立保健医療科学院医療・福祉サービス研究部
 
ラヒホイタヤの創設経緯等の日本への示唆 小野 太一
 
 
こちら筒井先生のパワポ。
介護人材における実践キャリアアップ制度構築 のための基本的な考え方 国立保健医療科学院 福祉サービス部 福祉マネジメント室長 筒井孝子

2016年10月28日金曜日

臆病者のための科学的起業法 マイケル・マスターソン

ぶっちゃけ、

私は本当にこの本で目の前風景が変わりました。
(月並みな言い方ですが。)


何が変わったか。
・企業というものへの価値観
 ⇒会社員or起業という二者択一という価値観
・ダイレクトレスポンスマーケティングの威力
 ⇒身の回りにある印刷物の見方
・とにかく行動を起こすという姿勢
 ⇒reday,fire,aim(構え、打て、狙え)
・リスクを背負うな。
 ⇒とかくリスクを背負う覚悟を求める人たちが多い。不動産とか。

そして、
本業以外に収入ができた!!
リアルワールドビジネスでね。
ネットビジネスとか、怪しいやつではないよ。笑

もうとにかく何回でもこの本を読んで欲しい。
そして気付いてしまってほしい。
「これって、おかしいよね?サービスになるよね?」ってことに!

私は読みながら勢い余って起業してしまいました。
当然リスクは小さくしか背負わずに。
起業しなくても、働き方が変わると思う。

この本を売ってるダイレクト出版は、
ちょっとこのブログでいつものやり方するとガチで訴えられそうなので、
引用等は↑↑↑くらいにしておきます。苦笑

いやあ、でも読んで欲しいなあ。

http://directlink.jp/tracking/af/1460433/Jus9N66V/

2016年10月26日水曜日

日本の看護のあゆみ 日本看護歴史学会 11

前回
日本の看護のあゆみ 日本看護歴史学会 10


今回は戦前~戦中の保健婦(師)の歴史。
この辺りも貴重な史料写真いっぱい。
是非実物の本を見て欲しい。

保健婦の成り立ちを学ぶのは、
そのアイデンティティをもう1回確認するのに役立ちそうですね。


◆保健婦は、看護職が健康と社会的状況に対応する活動の中から生まれた。
◆地域で活動した看護職は1920年代後半頃から社会看護婦、公衆衛生看護婦、訪問看護婦その他の名称で呼ばれ、保健・医療・社会福祉従事者として児童の集団感染予防、結核療養指導、母子保健福祉活動を中心に健康生活支援を担う役割を果たしていた。

◆保健婦の名称は、1928年に設置された大阪市の小児保健所で働く訪問婦を保健婦と称したのが始まり。
◆保健婦たちは、旧制の女子専門学校の卒業者でかつ日赤大阪支部病院で乳幼児保健や看護の指導を1力月程度受けた、当時としては高学歴の知識人であった。

◆制度的には、1937年の保健所法施行以降で、保健所職員の定員の中に保健婦の職名があるのが最初。
◆地域で活動する看護職教育の始まりは、日赤と聖路加女子専門学校。

◆公的機関が最初に開設した保健婦養成所は、1937年の大阪府立社会衛生院(1942年に大阪府立厚生学院と改称)

◆保健婦教育における国の制度は、1941に保健婦規則が公布され、同年厚生省から告示された私立保健婦学校保健婦講習所指定規則が始まり。

◆保健婦免状は地方長官(知事)が授与し、その資格は18歳(満16~17歳)以上の女子であり、 2通りの取得方法があることは助産婦や看護婦と同様。
 ①地方長官による試験(いわゆる検定試験)に合格し、その後3力月以上保健婦としての業務を実施した者。この試験の受験者は、1年以上看護または産婆の学術を修業した者
 ②厚生大臣が指定した学校または講習所を卒業した者。私立保健婦学校保健婦講習所規則による学校講習所には、第1種、第2種、第3種があり、いずれも厚生大臣の指定が必要。
  第1種:高等女学校卒業又は同等以上の学力を有する者、修業年限2年以上、うち1,200時間以上の臨床看護の実習と3力月以上保健所法による保健所その他適当なる施設において保健婦業務の臨地訓練に従事する。
  第2種:看護婦有資格者、修業年限は学説及び臨地訓練等を通じ6力月以上、うち3力月以上保健所法による保健所その他適当なる施設において保健婦業務の臨地訓練に従事する。
  第3種:産婆有資格者、修業年限は学説及び臨地訓練等を通じ1年以上、うち600時間以上の臨床看護の実習と3力月以上保健所法による保健所その他適当なる施設において保健婦業務の臨地訓練に従事する。

◆1942年、衛生行政は警察部から内政部に移管され、看護職の就業届は警察署でなく府県庁の担当課に提出されるようになり、医療や衛生問題は取り締まり行政から指導行政へと変化した。
◆1944年、保健婦規則の一部改正。養成所指定の権限は行政事務簡素化の目的で厚生大臣から地方長官に委譲された。
◆国から地方への養成所指定の権限委譲は、戦時体制ともあいまって多岐にわたる教育や試験の受験資格を生み出した。

◆1941年の看護婦規則の改正による免許取得年齢の引き下げから始まり、戦時体制としての多岐にわたる看護婦教育や資格取得方法が影響している。
◆保健婦規則による教育開始後、間もなく、教育期間は第1種の2年が1年半となり、第3種の1年が10力月になった。その後も授業内容の変更や時間が短縮。保健婦の増員が図られた。

◆生徒のほうも戦時体制への協力だけでなく、1943年頃からの女性の軍需工場等への強制動員を避けるため、当時の中等・高等教育の中で、看護職として保健婦を選んだ傾向もある。
◆当時の詳細な記録はないが、新制度保健婦として保健所に初めて配属された保健婦は、当時の同僚保健婦に各種の資格取得者がおり、複雑な事情を見聞きしている。

◆1945年5月、厚生省規則に代わり、国民医療法に基づく「保健婦規則」が新たに公布され、厚生省通達の「私立保健婦学校保健婦講習所規則」は「保健婦学校保健婦講習所規則」になった。「保健婦学校保健婦講習所規則に基づく保健婦養成」は、1954年8月31日まで存続。






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2016年10月25日火曜日

日本の看護のあゆみ 日本看護歴史学会 10

前回
その9


今日は産婆と看護婦の教育の歴史です。

産婆についてはこの辺と合わせて読むと面白いかもしれません。
「“いのち”をめぐる近代史―堕胎から人工妊娠中絶へ」岩田 重則



◆わが国における看護教育は、1885年に東京で、1886年に京都で始められた。
◆保助看法制定に至るまでの旧制度と称されている三規則
 ・1899年公布の産婆規則
 ・1915年公布の看護婦規則
 ・1941年公布の保健婦規則
◆高等学校卒業者に3年の教育をして、国家試験合格者に看護師免許を交付する教育制度は、保助看法制定の前年、1947年の「保健婦助産婦看護婦令」公布から始まった。

◆現行の看護教育のカリキュラムの出発となった「保健師助産師看護師学校養成所指定規則」は、19518月に制定。この指定規則に基づくカリキュラムは数次にわたって改正。
◆直近の教育内容に係る大きな改正は、20114月。看護をめぐる環境に配慮した質の高い看護を提供するために、学生の看護実践能力を強化する教育を求めている。

◆わが国の看護教育制度と言えるものは、産婆(助産婦)に関するものが最初。
1874年「医制」が制定。この中に産婆に関する規定が定められ、翌1875年に「産婆免許規則」が訓令されて、産婆教育が開始。

◆その教育の近代化は、1899719日に勅令として制定された「産婆規則」から。
◆「産婆規則」では、地方長官(政府から任命された府県知事)が行う試験の合格者に実地試験が行われ、合格した20歳以上の女子が産婆名簿に登録することによって、産婆業務が実施できた。

1910年の同規則改正によって、産婆資格取得は、①内務大臣の指定した学校または講習所を卒業した人、②産婆試験(いわゆる、検定試験)に合格した人に。
◆①の学校または講習所は、入学資格を高等小学校卒業者として2年間の教育を行った。当時は、尋常小学校6年までが義務教育で、女子の高等小学校への進学はわずかであり、産婆学校.講習所の卒業生は当時としては高学歴女子。
◆検定試験については尋常小学校卒業でも受験可能であった。

1912年、「私立産婆学校産婆講習所指定規則」。
◆産婆規則による産婆には看護婦業務を行う資格はなかった。
◆産婆の養成施設数は、1914年までに1333県で合計127(公立16校、私立111)が設立された。そのうち、内務省令指定規則による産婆養成施設は9校、他は検定試験を受験するための短期の講習所。
◆これらの養成施設は、その名称に「産婆」を用いていた。

「助産婦」の名称を用いた教育の始まりは、1892年に大阪で設立された緒方助産婦教育所。設立者の緒方正清は、わが国の新しい産婆教育に貢献した医師の一人。
◆「産婆とは学術の素養なき老婆を示し、助産婦とは素養あり規定の試験を終へたるものの名称を表す」と記し、「助産婦」と改めるよう提唱。
◆緒方は1896年、産婆改良に関して内務省に意見を開陳し、同時に『助産之弁』を発刊し、助産婦学会を起こし、卒後教育にも努めた。
助産婦という名称が公称されたのは、1942年の「国民医療法」。正式な名称改正は1947年の「保健婦助産婦看護婦令」から。

◆産婆講習所の専門科目は医師によって教授された。
◆検定試験を受験する人の教育は産婆規則に医師の指導の下でと記載されているので、開業医の下で1年以上見習いとして働き、試験科目のほとんどは独学して、医師の証明書を得て試験を受けた人も多い

◆「産婆規則」から1947年の「保健婦助産婦看護婦令」制定までの間、産婆の教育制度に大きな変化はなかった。
◆「産婆規則」成立後から大正時代には、資格を持った産婆がそれぞれの地域で定着するようになり、人々の意識も資格を持った産婆に助産を依頼する方向に変化し、需要も増えていった。
◆戦前は自宅分娩がほとんどであった。産婆は身近な存在として、出生児の母親や祖母から信頼され、各地方の女性のリーダーとしての役割を果たした人が多く、自立心のある女性の憧れる職業の一つであった。

◆わが国における看護教育の始まりは、1887年前後。
◆高木兼寛らによる有志共立東京病院看護婦教育所(後の慈恵会付属看護婦講習所)、櫻井女学校付属看護婦養成所(東京)、新島襄らによる京都看病婦学校(同志社)が創設、続いて1889年には帝国大学医科大学附属第一医院看病法講習科、日本赤十字社看護婦養成所。
◆日赤を除いてキリスト教宣教看護師の直接的指導あるいはイギリスのナイチンゲールによる看護教育などを模範とする女子教育・西欧文化の受け入れとして開始。

1915年に「看護婦規則」が内務省令として制定された。
・看護婦免許を取得するには年齢18歳以上(16~17)で、2通りのコース
 ①地方長官の指定した看護婦学校または講習所を卒業した者
 ②地方長官の行う看護婦試験(いわゆる検定試験)に合格した者
◆地方長官から看護婦免状が下付され、この看護婦免許を所持しなければ看護婦と称して業務することができなくなった。
2コースによる資格取得方法は産婆に準ずるものであり、1900年に出された「東京府看護婦規則」やその後の各府県の規則も同じ

◆検定試験受験の要件は、義務教育であった尋常小学校卒業以上で、医師の下で1年以上看護を学んだという医師の証明が必要。
◆開業医の下では診療の介助やお手伝いさん的な仕事をし、試験科目の勉強は独学が多く、高等小学校卒業以上を基礎学歴とする指定校卒業生との学びの差は大きかった。

◆看護婦規則制定の2力月後、1915年に「私立看護婦学校看護婦講習所指定標準ノ件」内務省訓令が定められた。
◆それまで各都道府県別に定められていた看護婦学校または看護婦講習所における教育内容が全国的に標準化された。

◆この学校講習所の修了者には無試験で免状が与えられた。さらに、この訓令の取り扱いについて「看護婦規則並私立看護婦学校看護婦講習所指定標準」が通達された。
◆看護婦規則制定まで、府県で看護婦に関する規定があって、府県の看護婦免許を得ていた者はそれを適用し、それ以外のこれに類する看護の教育を受けて看護婦となった者も同じ既得権が適用されるとするもの。
◆官立、公立の看護婦学校講習所の指定にも、この指定標準が準用された。
◆従来の看護婦養成所は、規則制定後に地方長官指定看護婦学校講習所として認可されたものと、指定標準に満たない学校とに分けられた。

◆日中戦争の戦局を反映して1941年に看護婦規則が改正され、免許取得年齢の18歳以上は17(15~16)以上と繰り下げ
◆同年128日に太平洋戦争に突入し、1943年には戦況急迫による看護婦増員の目的で「女子中等学校卒業者に対する看護婦免許に関する件」が文部省、厚生省共同で通達。高等女学校で600時間、看護に関する科目の授業を行った学校は看護学校の指定を受け、卒業生には免状が与えられた

 1944年、免許取得年齢が16(14~15)に引き下げ。
◆看護婦学校講習所の教育年限を2年から1年半に短縮するなど、他の学校教育同様短縮された。
◆同年、看護婦規則改正で検定試験受験資格特例として、医師の下での経験は女子中等学校卒業者が3力月以上、その他は6力月以上となった
◆当時の状況から見ると、中等教育は実業学校等で3年のところもあり、尋常小学校卒業後6力月でも看護婦試験を受験し、合格者に看護婦免許が出された。
◆終戦間際の194565日に帝国大学系と官立医科大学系の看護婦養成所は、勅令によって看護婦と高等女学校卒業の資格が取れる修業年限3年の厚生女学部となった。

◆看護婦規則による教育機関の中で、先駆的な存在は聖路加。
1900年、聖公会宣教医師として来日したルドルフ・トイスラーは、1920年、高等女学校卒業生に3年間の看護教育をする聖路加国際病院付属高等看護婦学校を設立。
◆カリキュラムはアメリカとカナダの看護教育をモデルとし、看護教育の責任者をアメリカ人のナース、ミセス・セント・ジヨンとして、看護は看護婦が教育した。
1927年に旧制専門学校の聖路加女子専門学校となり、ここに看護を学ぶ文部省認可の高等教育学校が出現した。

◆日赤では、志願者の学歴の高まりに応えて学力の均質化を図るため、1933年に日本赤十字社救護看護婦生徒・救護看護婦長候補生養成規則を制定し、入学資格を高等女学校卒業者としている


 

つづき
その11




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2016年10月24日月曜日

日本の看護のあゆみ 日本看護歴史学会 9

前回

◆1960年代の病院ストを契機に、国が設置した「病院経営管理改善懇談会」において、病院組織の近代化を図るための改善策としてチーム医療の必要性が示された
◆2010年3月、厚生労働省「チーム医療の推進に関する検討会」報告書において、「チーム医療とは、医療に従事する多種多様な医療スタツフが、各々の高い専門性を前提に、目的と情報を共有し、業務を分担しつつも互いに連携・補完し合い、患者の状況に的確に対応した医療を提供すること、と一般的に理解されている」と示された。

◆医療提供の理念や場を規定した「医療法」に、チーム医療の考え方がわずかに反映されたのは1992年の改正。
◆医療法第1条の2には「医療提供の理念」が定められているが、この条文中に医療の担い手として医師、歯科医師に加えて、薬剤師、看護師の職種名が初めて明示。
◆日本の医療水準を上げるためには、看護師が主体的にできる業務が少なすぎる、看護師が自分の判断でやれることを明確にすべき、と医師でもある坂口力厚生労働大臣が著書『タケノコ医者」(光文社刊、 2001年)に記した。
◆このような背景から、 2002年「新たな看護のあり方に関する検討会」(座長:川村佐和子)では、「療養上の世話」は看護師の責任で判断すべきものであること、包括的な医師の指示の下で、在宅がん終末期患者の痔痛緩和ケアにおける麻薬等の適時・適切な投与、在宅で死を迎えた患者への対応など、医師との連携のあり方が示された。
◆中間報告書では、1951年以来、法的にそれまで明解にされてこなかった「静脈注射」を診療の補助に含むよう法律解釈の変更が提言され、これに基づいて静脈注射は50年ぶりに看護師も行えるようになった。

◆2007年12月25日、内閣府の規制改革会議第二次答申、医師不足対策の一環として、医師が行うとされている医療行為のうち、看護師等医師以外の医療従事者でも実施可能なものについては、積極的に実施を認める方向。諸外国の状況を踏まえてナース・プラクティシヨナーなどの導入についても言及。
◆この答申の3日後、「医師及び医療関係職と事務職員等との間等での役割分担の推進について」(厚生労働省医政局長通知 2007年12月28日)。
・医師の事前の指示の範囲内での薬剤投与量の調節
・救急医療等における診療の優先順位の決定診療前の看護の情報収集と補足説明など、医師と患者の意思疎通の調整など8項目にわたる看護師の役割が示され、看護師の業務の拡大と責任がより大きくなる内容。

◆日本学術会議での議論について詳細に記載(是非本を読んでみて下さい)

◆「チーム医療の推進に関する検討会」の報告書(2010年)では、"看護師はチーム医療のキーパーソン"として大きな期待が寄せられているとして、看護師の役割拡大のあり方として、特定の医行為を行うことができる特定看護師(仮称)の提案がなされた。
◆引き続いて開催された「チーム医療推進会議」では、約3年にわたる長い議論の結果、 2013年3月、「特定行為に係る看護師の研修制度」(案)として報告された。現在、関係者からの最終的な意見を求め、同案を踏まえた法制化がなされるところである。
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◆WHO(世界保健機関)やILO(世界労働機関)への再加盟が1951年に実現。
◆WHOでは、1953年に西太平洋地域事務局(WPRO)において「看護教育と看護管理に関するセミナー」が開催。当時の厚生省の金子光看護課長が参加。
◆1955年から3年間、わが国の看護教育の技術援助のため、キャサリン・ライマン女史がWHOから派遣。国立公衆衛生院(現国立保健医療科学院)において、保健婦・助産婦・看護婦学校の専任教員の育成に関して指導を行った。
◆保健婦の研修しか行っていなかった公衆衛生院において、看護の質向上のために最も重要な人材の育成を、助産婦、看護婦に拡大して取り組んだ
◆1961年、 WPROによる看護管理セミナーが東京で開催され、「看護管理の定義」が定められた。
◆1978年、アルマ・アタ宣言。
◆1986年、 WHO主催の世界看護指導者会議が東京で開催。
◆1990年、日本で初めての看護のWHO協カセンターが誕生。プライマリーケアに関する協カセンターとして聖路加看護大学、千葉大学看護学部、東京大学医学部保健学科および国立公衆衛生院看護学部の4施設が連携・共同した形で指定された
◆2004年からは聖路加看護大学単独での指定。
◆2007年には、兵庫県立大学地域ケア研究所が災害看護に関するWHO協カセンターとして2番目の指定を受けた。
◆従来、世界保健総会に出席する日本政府代表団に看護職が入ったことはなかったが、2003年には厚生労働省の田村やよひ看護課長が初めてのメンバーとして、また南裕子日本看護協会長が顧問として参加
◆2005年ICN会長選挙において、東洋から韓国に次ぎ2人目の南裕子が当選。

◆1958年、「ILO看護婦の労働・雇用条件に関する特別専門家会議」に湯槙ます日本看護協会会長が出席。
◆1977年、第16回ILO総会において採択された「看護職員の雇用及び労働.生活条件に関する条約(149号)・勧告(157号)」は、「低賃金と劣悪な労働条件の改善」を掲げて病院ストを経験してきた日本の看護職員に、大きな希望と衝撃を与えた。
◆このILO総会には、厚生省から清水嘉与子看護課長が出席。日本看護協会や労働組合は、政府にこの条約・勧告の批准を強く働きかけてきたが、条約第6条にある「教育休暇」がないなど、日本は労働法制上における諸条件が異なることから、批准されないまま今日に至っている。
◆やむなく別途県条例によって県職員を対象に「教育休暇」を制度化した所もある。
◆1977年には、ICN第16回4年毎大会が東京で開催。この大会はアジアで初めてであり、79力国が参加。アルマ・アタ宣言が出される前年ということもあり、大会の成果として、地域看護・プライマリーヘルスケア(PHC)の重要性と、継続的な看護の発展には卒後教育、続教育の強化が重要という認識が世界の看護指導者共通のものとなった。
◆ドロシー・コーネリウスICN会長が掲げた合言葉は"accountability"であった。当時は「責務」と訳されたが、専門職としての「説明責任」の意味が強いものであり、PHCにおける看護師の役割の拡大に応えるものと考えられた。
◆2007年には、南ICN会長、久常節子日本看護協会長の下で、横浜においてCNR会員代表者会議と学術集会が開催。121力国3,900名。

◆わが国は経済の活性化を図るために、東南アジア地域を中心に2国間の貿易協定を結ぷ動きを活発化させてきた。これは経済連携協定(EPA)もしくは自由貿易協定(FTA)と呼ばれ、日本は2012年11月時点で13力国との協定を締結。
◆外国人看護師の受け入れに当たってのわが国の基本的な方針は、以下のようである。
 ①国の雇用基本計画にあるように、社会・経済の活性化のため専門的・技術的な労働力は積極的に受け入れる。
 ②看護師免許・資格の相互認証は行わない。看護師として就業するには、日本の看護師国家試験合格を求める。合格までの間は看護補助者として就業する。
 ③雇用条件は、日本人の看護師および看護補助者と同等以上とする。
 ④看護師の需給は基本的に日本人によるものとし、外国人看護師の受け入れを看護師不足の解消手段とはしない。

◆外国人看護師は、入国後6力月間の日本語やわが国の看護、医療、文化等の研修後、各地の病院で看護助手として就業しながら国家試験の受験準備をする。国家試験に合格すれば、在留資格の更新をしつつ半永久的に在留が可能となる。しかし、受験機会は3回までとされており、この間に看護師国家試験に合格できなければ帰国することとなっている。
◆これまでの結果では国家試験合格率は芳しくなく、社会からの批判もあったため、厚生労働省ではさまざまな対策を取りつつある。
◆具体的には、「試験問題の漢字にふりがなを振る、病名に英語表記を加える、試験時間を延長する、3回目の試験で一定以上の点を取った者に在留の延長と4回目の受験を可能にする」など。
◆保助看法上は外国で看護師教育を受けた者は准看護師試験を受験することが可能なことから、准看護師免許を取得する者も現れている。これは、経済連携協定の当初の趣旨とは異なるため、今後、問題化する可能性を含んでいる。
◆外国人看護師を受け入れた病院では、職場の活性化や職員のコミュニケーション能力の向上などの好ましい評価がある一方、受け入れ自体に伴う経済的負担に加え、国家試験準備のための教育や日本語教育などの新たな負担増となっているという実態も明らかにされてきている。
◆国家試験に合格しても本国に戻る者もおり、受け入れた病院関係者には戸惑いが広がっているとの報告もある。
◆外国人看護師自身の日本での体験についての研究では、看護補助者として就業することによって、看護師としてのアイデンティティの揺らぎや専門技術が低下することへの不安、自国では未経験の認知症高齢者ケアについての驚き、日常生活習慣や動作の違いによる戸惑いなど、日本語だけではない困難が明らかになっている。

つづき



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