2016年6月26日日曜日

優生学と人間社会 第2章の2 市野川容孝

前回
優生学と人間社会 第2章の1 市野川容孝

ドイツの優生学。続きです。

◆ドイツで優生学(人種衛生学)が学問として形を整えはじめるのは、19世紀後半
◆細菌学は、コレラやチフスといった伝染病から人びとの命を救うことに多大な貢献をなしたが、研究が進むにつれて、細菌学自体の限界が露呈しはじめる
◆菌に感染しているのに肺結核を発症しない人の存在が確かめられた。結核菌なしに肺結核はありえないが、その発症には最近の侵入以外のもっと複雑な要因が絡んでいる

ルドルフ・ヴィルヒョウは、「医学とは一種の社会科学である」と述べながら、貧困の解消等の社会改革もまた医学の重要な課題であると説いた

○アルフレート・グロートヤーン
◆ヴィルヒョウ以来の伝統を「社会衛生学」として継承した
◆病の原因として、まず細菌の侵入等、個々人の身体に関わるもの、第二に貧困等の社会的なもの、第三に遺伝に由来する者が付け加え、これに対応して、医学も保健、社会衛生学、そして優生学の三つを課題としなければならないと説いた。
◆少なくとも20世紀初頭において、「遺伝」という概念は、厳密な科学的概念としてよりも、克服できない病や生涯を説明する一つのマジック・ワードとして多分に機能した
◆遺伝として説明された不治の病や障害をもつ人々がその生命を再生産する回路を、何らかの方法で遮断することによって、彼らの病や障害そのものを将来、社会から根絶することに、求められた

○ヴィルヘルム・シャルマイヤー
◆グロートヤーンに先立って、優生学の雛型をドイツでもっとも早く提示した
◆基本的主張は、文明、文化が発展すればするほど、淘汰が阻害され人間の「変質」(退化)が進むというものだが、それはすでにダーウィンによって述べられていた
◆「変質」(退化)の原因として、シャルマイヤーは三つのものをあげている
 ・第一、医学、公衆衛生の発達。それまで淘汰されてきた虚弱な個体が延命と生殖を許されるようになった
 ・第二、戦争と兵役制度。徴兵検査にパスする屈強な人間を死に追いやったり、負傷させる一方で、徴兵検査で失格するような欠陥のある人間には、銃後で安全に暮らすことを許す。
 ・第三、私有財産もしくは資本制。厳しい労働に耐えうる屈強な労働者が貧困に苦しみ、家族を持つことも困難。資本家は、労働能力のない虚弱な者でも生き延び、そして子供を作っている。
社会主義、平和を恒常的に維持することが優生学に最も適した社会制度だと考えていた
◆これまで「治療」が中心だった医学のあり方を「予防」重視に変え、なかでも子どもをつくる生殖の過程で疾患や障害が次世代に伝達されないようにしなければならないと説いた。
◆文化の発達によって諸民族間の交通がさかんになり、その結果、混血の機会が増えることは優生学的に見て望ましいとした。
◆優生学は即、人種主義を意味するわけではない。人種主義に結び付いた優生学は、当初はドイツでも傍流に過ぎなかった。
◆患者からの報酬に依存している限り医師は予防に力を注ぐことはできないと主張

○アルフレート・プレッツ
シャルマイヤーと異なり、プレッツは強い民族主義的思考をもっており、アーリア民族こそもっとも優秀で、その優秀さは他の民族との混血によって次第に損なわれてきたと得フランス人ゴビノーの教えを広めるため、1894年に設立された「ゴビノー協会」とも、関係をもっていた
◆社会主義に大きな影響を受け、ギナジウム終了後、自然科学への傾倒を捨てて、経済学を学び始め、チューリッヒに移って社会主義の思想に接近
◆アメリカのアイオワ州にあったコロニー「イカリア」に体験入植。しかし、コロニーが喧騒、怠惰、裏切りの横行する社会として映り幻滅。こうした悪癖が多分に生物学的な要因によって決定されいるのではないかと考え、専攻を医学に変える
◆社会改革と同時に、人間の生物学的質の改善を強く意識するようになる
◆イカリア:フランスの社会主義者エティエンヌ・キャベーが1848年に、社会主義の理想に基づいて建設したコロニー
◆1905年、ベルリンで「人種衛生学会」を設立。この学会はドイツ優生学の1つの牙城となる

◆社会という概念と、種という概念の違いを強調
◆社会も種も個体の集合であることに変わりないが、社会は相互扶助であり、種は持続する生命体と定義している
◆種:①時間的な連続性
   ②個々の要素を超越した全体性。個々の要素を犠牲にすることも必要。社会は個々人の生命をあくまで維持しようと努める「社会」の原理を批判的にとらえる
   ③闘争、淘汰の原理。種の進化は、品種間の生存闘争と淘汰によってもたらされると説明。
◆民族主義、人種主義を嫌ったグロートヤーンなどは「人種衛生学」という言葉を嫌い、「優生学」あるいはプレッツが最初に用いた「生殖衛生学」という言葉で通したけれども、そのグロートヤーンもまた、プレッツの「人種衛生学会」の正式会員だった

◆社会や相互扶助の原理の重要性を認めながらも、これを種や淘汰の原理となんとか両立させることに、最大の知的努力をそそいだ。
◆解決策を、淘汰の過程を出生前に移行させることに求めた
 ・暫定的な処置(遺伝性疾患・障害者の結婚や子づくりの禁止、不妊手術で当時すでに実行可能だった)としていわゆる自然淘汰を性的なものに転換する。これによって、劣った資質の個人が子孫を持つこと、そして自らの欠陥を遺伝させることが防げる
 ・淘汰の過程そのものを有機体としての個人の段階から、細胞、とりわけ生殖細胞の段階に移行させる。…低価値であることが何らかの形で観察ないし推定できる無能力な生殖細胞の除去へと切り替える
◆1960年代以降、超音波診断、羊水検査、絨毛生検、そして母体血清マーカー検査といった出生前診断の技術が次々と開発、応用されるようになり、胎児の障害の有無を調べたうえで中絶することが可能に
◆1970年代末以降の体外受精技術が可能に。生殖細胞や受精卵に対する遺伝子治療も登場しつつある。
◆これらの技術はプレッツの時代には、まだ夢でしかなかったが、彼は100年も前にその到来を予見し、待ち望んでいた。

第2章の3






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