2016年6月5日日曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第1章


◆一人の人格をケアするとは、もっとも深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである。
◆他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きている
◆”ケアすること”と’’自分の落ち着き場所にいる’’という二つの概念は、人間であることについて実りある考え方を提示してくれる。そしてそれ以上に大切なことは、私たち自身の生を自分たちがもっとよく理解するのに役立つということなのである。

第1章
◆ケアする際に経験される相手との合一の体験は、寄生的関係で起こる合一とは異なる。相手を支配したり所有しようと試みるのではなくて、私は、それが本来持っている存在の権利において成長すること、またよく言われるように’それらしくなる’ことを望んでいる
◆ケアしている親にとって、子供はそれ自身の価値を持っていると感じとられている。そのときその価値は、親たちの要求を子供が満たす力を持っているのとは全く別のものなのである
◆他者を支配する力を私に与え、他者に優越する何ものかを私にそなえさせる一つの関係性の中でではなく、むしろ一種の信頼感の中で、私が他者から必要とされていると深く感じ取っている
◆他者が成長するのを援助するとき、私は自分の方針を他者に押しつけたりはしない。私はむしろ、他者の成長の方向をみて、それが、私がケアの中で何をするかを導き、どのように私が応答すべきか、そしてそのような応答には何が適切であるかを決めるのに役立ってもらうようにする
◆他者の成長を尊重することから生まれる方向性を、”他者の志向まかせ”と混同してはならないー後者は、私が自分自身とも生きた接触を失った一種の妥協を指すからである

◆専心は、友情に不可欠な要素であるように、ケアにとって本質的なものである。
◆長い目でみた場合、専心は私の首尾一貫性によって示される ー 不利な状況のもとで退かないことや、困難をすすんで克服していくことにみられる一貫性である。
◆専心のひとつの帰結として導き出される諸義務は、ケアを構成する本質的な因子である。私はそれが、自分に押しつけられたものとか、必要悪とは感じないのである。
◆ケアすることの実際場面では、ケアの対象はどれでもよい一般的なものではなく、いつも特定の誰かであり特定の何かである。

◆ある人が成長するのを援助するのを援助することは、少なくともその人が、何かあるもの、または彼以外の誰かをケアできるように援助することにほかならない。またそれは、彼がケアできる親しみのある対象を発見し、創造することを、励まし支えることでもある
◆成長することとは、その人が新しいことを学びうる力を持つところまで学ぶことを意味する。
◆学ぶとは、知識や技術を単に増やすことではなく、根本的に新しい経験や考えを全人格的に受けとめていくことをとおして、その人格が再創造されることなのである
◆できるだけ独り善がりの幻想を排し、自分自身を見つめるようになってはじめて、彼は何が手段であり、何が目的であるかを理解するようになる
◆見かけ上は異なった種々の活動が、どの活動もケアすることを含んでいるので、互いに関係を持つことが明らかになる
◆ ”ケアする”という概念は、”信頼””正直””謙遜”という他の意義深い概念との関係を明らかにすることによっても展開される



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