2016年5月24日火曜日

千のプラトー ジル・ドゥールズ フェリックス・ガタリ その2


序 リゾームのその2です。
勉強会行って、解説というか筆者の概念についての講義を受けたら、
本当に何が言いたかったかよく分かった。
すげえなあ。

nマイナス1とは何か。
この意味が分かっただけで全部筋が通った。


◆精神分析と言語学を見るがよい。前者はただ無意識の複写または写真しか作ったためしがなく、後者は言語の複写または写真しか撮ったためしがなくて、そこには予想されるあらゆる裏切りがともなっている
◆リゾームがふさがれ、樹木かされてしまったら、もうおしまいで、もはや何一つ欲望から出てきはしない。
◆子供が家族のうちにみずからを根づかせ、父の姿のもとで写真に撮られ、母のベッド複写されている以上、いかにそれらの逃走線が封鎖されているか

◆樹木ー根の極微な要素である測根が、リゾームを生み出す糸口になることもある。簿記や役所仕事は複写によって進められるにもかかわらずそれらが発芽しはじめ、リゾームの茎を伸ばしはじめることもある。
◆長い記憶は樹木状であり、中心化されている。短い記憶は少しも、対象との隣接性あるいは直接性の法則にしたがっているわけではない
◆樹木状システムは序列的システムであって、意味性と主体化の中心、組織された記憶、そしてまた中心的自動装置を含んでいる
◆精神分析は無意識を樹木構造。無意識というものについての専制的考え方にもとづいて、それは独自の専制的権力を打ち立てる

◆どんなに樹木は西欧の現実と西欧の全思考を支配してきたことか
◆東洋、とりわけオセアニアには、あらゆる点から見て樹木という西欧的モデルに対立するリゾーム的モデルのようなものがありはしないか
◆アメリカにはさまざまな方向が存在する。東部においては樹木状の探求と旧世界への回帰が行われる。けれども西部はリゾーム状なのだ
◆アメリカにはすべてが集合しており、それは樹木であると同時に水路、根であると同時にリゾームなのだ
◆重要なのは、樹木ー根とリゾームー水路とが二つのモデルとして対立するのではないということだ

◆プラトーはつねに真ん中にある。初めてでも終わりでもない。リゾームはもろもろのプラトーからなっている。
◆さまざまな強度の連続する地帯、みずからの上に打ち震え、何かある頂点へ、あるいは外在的目標に向かうあらゆる方向づけを回避しつつ展開される地帯である
◆一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれはプラトーと呼ぶ
◆アレンジメントとは領野のそれぞれから取ってきたいくつかの多様体を連結する
◆教養的なものとしての本は、必然的に複写であるしかない
◆リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ




 

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