2016年8月25日木曜日

哲学入門 ヤスパース 第3講

昼活です。

前回
哲学入門 ヤスパース 第2講


◆本来の存在、あらゆるものを結合し、あらゆるものの根底に横たわり、存在するいっさいのものがそれから発生するところの存在とはいかなるものか。この問いに対する答えは驚くべきほど多様にある(水、火、土。。。)
◆本来存在とは何であるか、という問いに対するこの答えは世界内において現れる存在者をさしていわれている。そしていっさいの他の物はこの存在者から生れ出る、という特殊な性格をもっている
◆数千年の間においてこれらの立場の中で真の立場であることを証明できたものはない

◆私たちがあるものについて思惟し、それについて語るところの当のものは、常に私たちとは異なった別のものであり、私たち(主観)が、それを私たちに対立するもの(客観)として心を向けるものである
◆思惟する自我は自らこの思惟を遂行するが、しかしそれみずからはそれに適応した客観としては思惟されない
常に対象は私たちの意識内容として、外部的あるいは内部的に私たちに対立して存在している

◆存在は全体としては客観であることも、主観であることもできないで、むしろ包括者であらねばならないということ、そしてこの包括者が分裂して現象となって現れるということは明瞭である
◆包括者は自らは対象とはならないけれども、自我と対象との分裂において現象となって現れる

◆あらゆる思惟のうちに第二の分裂が存している
◆第一にそれは私、すなわち思惟する主観、と関係し、第二に他の対象と関係している。
◆あらゆる対象は思惟された内容として、けっしていっさいであるこも、存在の主体であることも、存在そのものであることもできません
◆思惟されているということは、すべて包括者の外へ脱落していることを意味します
◆この思想は私たちにけっして新しい対象を示さないからして、それは普通の世界知の意味においては空虚である。しかし、それはその形式を通じて、私たちにとって存在する存在者の現象の無限の可能性を開き、また同時に、あらゆる存在者を透明ならしめる

◆存在の中に侵入することは、ただ間接的にのみ行われる。なぜなら、私たちは語ることによって対象に関して思惟するからである
◆私たちは常に主観=客観の分裂状態におかれていて、それを外部からながめることはできないのですが、私たちはこの分裂について語ることによって、それを対象とするということになる
◆私が悟性として対象を志向しているか、あるいは行ける現存在として私の環境世界を志向しているか、それとも実存として神を志向しているかということによって、根源的に異なっている
◆悟性として私たちは、把握可能な事物に対立し、可能である限り、これらの事物について、すなわち常に規定された対象について、いなみがたく普遍妥当的な認識を得る

◆実存として私たちは神ー超越者ーに関係している。そしてこの関係は、実存が暗号または象徴たらしめるところの事物の言語によって生ずるものである。
◆もし私たちが包括者を確認しようとすると、すぐにそれは若干の包括者の様式へ分類されます。そしてこの分類はあの主観=客観の分裂の三様式を手引きとして行われる
◆包括者は、存在それ自身として考えられた場合は、超越者(神)および世界と呼ばれ、私たち自身であるものとしては、現存在・意識一般・精神・実存と呼ばれる

◆ヨーロッパの哲学者はいかなる場所においても、時代においても同じような意味のことを言っている。それは、人間は主観=客観の分裂を越えて、主客の完全な合一へ到達することができる、そしてそこではあらゆる対象性も自我も消滅するというもの
◆神秘主義者の神秘的な経験に対しては、もとより疑いをさしはさむことはできないが、あらゆる神秘主義者は言語によって自己を伝達しようと欲するにもかかわらず、本質的なものは言語によって語る事ができないという事実に対してもまた、疑いをさしはさむことはできない。
◆神秘主義者は包括者の中へ沈潜する。語りうるようになるものは主観=客観の分裂へ陥る

◆存在論や形而上学はしばしば対象知として理解されているが、絶対に誤り。むしろ対象知に尽きるものではなくて、むしろ存在の暗号文字であった
◆いわゆる存在認識はすべて、それが世界内にある、何か重大な存在者を存在そのものと見なそうとするやいないやその価値を喪失する。
◆しかし、私達が存在そのもの見るために世界の地平線内におけるあらゆる存在者を、すなわちあらゆる現象を、越え出るならば、形而上学は私たちにとって可能な唯一の言語となる
◆形而上学を通じて私たちは超越者としての包括者の声を聞く。そして私たちはこの形而上学を暗号文字として理解する
◆しかし、私たちが、この思惟を勝手に美的に味わうようなことをするならば、私たちは形而上学の意味をとらえそこなう
◆客体そのものを本来的な存在と見なすことは、あらゆる独断論の本質であり、また象徴を物質的な具像性として実在的だと見なすことは、特に迷信の本質である

◆包括者への人間の飛躍は、対象を規定する思惟の媒介において、しかもそれにおいてのみ、起こるものである
◆存在が私たちにとって存在するためには、存在が主観と客観との分裂において、経験を通じて心にとっても顕になるということが条件

◆私たちの思惟する現存在の根本的事実としての主観=客観の分裂の意識化と、その中に顕現する包括者の意識化は、私たちにはじめて哲学することの自由をもたらす
◆事物の絶対性と対象的認識論の絶対性の喪失は、これらのもののうちに自分のささえをもつ者にとっては、ニヒリズムを意味する
◆私たちの哲学的思惟は、むしろ本来の存在への解放であるところのこのニヒリズムを通っていくのであります。哲学することにおける私たちの本質の再生によって、あらゆる有限的な事物の、かつては制限された意義と価値が生じてくる

続き哲学入門 ヤスパース 第4講




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