2016年7月11日月曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第5章

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第4章

選挙、自民が勝ちましたね。
櫻井充さんが再選して個人的には嬉しいです。
では本編。


第5章
◆ひとたび他者をケアすることとなったとき、以前重要であると感じていた多くの事柄が、その重要性に変化を生じ、ケアに関係した事柄が新しい重要性を帯びてくる
◆自分のケアとその諸条件とがかみ合わないものは除外してゆき、全く関連していないようなものは切り捨てていく。こうした序列化の活動は、いわば自然が芽を吹くように人生の内面から出現してくる
◆私のするケアが十分包括的なものであるならば、このケアは私の生活のあらゆる領域に深くかかわってきて、実りある秩序を提示する
◆全面的な序列化をする際には、ある種の事柄や活動をあきらめなければならず、そのため服従という一要素をも含んでいる。しかし、この服従は、きほんてきには自分自身を解放し、確信を与えてくれるものなのである
◆この服従は自己主張をしりぞけ、自己をありのままに認めるようになる意味を持っている。私はじこの人生の諸条件をこうあって欲しいと願うかわりに、そのまま受け容れるようになる。

◆私たちは全面的・包括的なケアによって、私たちの生を秩序だてることを通じて、この世界で”場の中にいる”のである。
◆自らを発見する人が、自らを創造することについても大いに力をつくしたと同様なやり方で、私たちは自分たちの場を発見し、つくり出していくのである
◆場は、それが個人の所有物であるかのごとくに、私が所有しているものではない。むしろ私は、他の人にかかわっている、そのあり方ゆえに’場の中にいる’といえる
◆場というものは、たった一度だけ確立されればそれでよいというものではない。成長していこうという他社の要求にこたえて私たちが応答すること、これこそ私たちに場を与えてくれるものである
◆場は実体化されるべきものでもない。これは物でもないし、固定した状態でもない。場の中にいることを安定した状態になることと考えるかもしれないが、安定とは力動的なもので静止しているものではない

◆自分に適した場所を知ることにより、場の中にいることができなくなる場合さえ、しばしば起こり得るのである
◆私が場にいるということは、場の中にいることから他の人たちを排除することを前提としているのではない
◆私には場の外にいる人たちと自分を比較したり、その人たちよりも自分自身を上に位置付ける必要は全然ない
◆ケアすることが、私が場の中にいることを可能にするほど全面的・包括的なことであるとすれば、ケアは、私に特有の能力に根ざしていなければならない
◆ケアが十分包括的なものであるためには、私たちは自分自身をケアしなければならない。なぜなら、自分自身の成長の欲求にこたえられないような人は、けっして場のなかにいることができない
◆あるケアの方が他のケアに優先するという場合も、ときには出てくることがある。しかしこうした不均衡は、やがては平衡が保たれ解決されるにいたる。
◆私たちは同時に多くのことに専心することは実際できない。時間の方がそれほどない。

◆補充関係にある対象に無関心であることは、同時に自分自身への無関心にもつながり、やがては場というものを失ってしまう結果になる
◆私の対象が、私のせいにとって中心的なものとなるまでに成長しなければならないように、自分自身もまた、こうした包括対象を持つことができるように成長を遂げなければならない
◆ある特定の対象が自己と補充関係にある対象であるかどうかは、それが短期的な観点から観察されるか、あるいは長期的観点から観察されるかによる
◆私は自分と補充関係にある対象に関しては、その要求に対し、いつでもこたえることが状態にある。

◆ある対象が成長していくならば、その対象が私に持っている特定の要求によって、私は私の生の意味を生きることが可能となる
◆ある目的のゆえに自分の生の中で意味を強く感じとったり、意味あるときを過ごしたり、あるいは、他の人が私の生を意味あるものとみなしていることがあったりしても、必ずしもそれで、私が私の生の意味を生きているということにはならない
◆意味ある状態でいられるかどうかは、私自身の能力や限界、私が存在している一般的環境、そして私にとって可能な手段の如何による
◆私は私の生の意味を生きるためにケアにたずさわっているのではなく、私と補充関係にある対象へのケアを中心にすえた人生を生きること、それ自体が、私が私の生の意味を生きることになる


ラスト!
第6章







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