前回
第1章
◆ルサンチマン:特定の何かに向けられているわけでもなく、あらゆるものに向けられうる悔しさ
◆障害者のルサンチマンを語るのはとても難しい。
◆多くの人が同意をしたとしても、それらの人びとにルサンチマンが最初からあったことは証明にならない。
◆構築主義では、Xとは、人びとがXと見なし、Xとして扱うものだと定義する。およそ定義とは言えない概念の扱い方だが、最近の社会学ではとくに珍しくない。
◆構築主義は、「言語/言語外の現実」、「主観的表象/客観的構造」「テクスト/コンテクスト」といった古典的名二分法を受け入れず、我々の前にあるのは言語・表象・テクストだけだ、というのがこの立場の論理的帰結。
◆構築主義に立つと我々は構築ということは言えても捏造ということは言えない。なぜなら実在するものを客観的に確定することができなければ、実態との差分がとれなくなるからである。
◆価値に手の届かない者はルサンチマンを抱き、価値を否定する。そして別の価値を創造する。自らが信じる価値を否定するには命がけの自己欺瞞が必要であり、それなしには価値の作り替えは成らない
◆人は、自分は価値ある特別な存在だということ、あるいは無価値な存在ではない、ということを証明しようとして日々行為する。これを存在証明と呼ぶ。存在証明は他者による承認を必要とする
◆一般に存在証明は、日常のルーティンワークを通じて達成されている限り、自覚されず、また他者に気付かれることも少ない。存在証明が指摘されるのは日常的なルーティンワークの外部に存在証明が「突出」した時である。
◆存在証明が突出するのはとりわけ被差別者において。差別は人から存在価値を剥奪する。差別を繰り返し被った人々は、激しい自尊心の損傷を経験する。損傷した自尊心は修復を要求して存在証明に拍車をかける
◆存在証明の方法
①印象操作:負のアイデンティティを隠し、価値あるアイデンティティを装う
⇒隠蔽しようとするほど、負のアイデンティティが自分の本質となる。悪循環。
②補償努力:社会的に価値あるアイデンティティの獲得
⇒補償努力では、「~にしては・・・」という形式の評価になる。さらなる存在証明へと駆り立てる
③他者の価値剥奪
⇒他者のおとしめであって、自分の価値が積極的に証明されるわけではない
④価値の取り戻し:社会の支配的名価値を作り替え、肯定的なものへと反転させる
⇒既成の価値体系の下で存在証明を成功させてきた人々から強い反発や拒絶を受ける。価値をめぐる激しい闘争を招く。
◆そもそも人が存在証明に躍起になるのは、社会が存在証明を要求したから。社会成員の行動を方向付け、管理し、限定し、秩序を調達している。
◆アイデンティティ問題が深刻であるほど、あるいは印象操作などの社会的機能を実感するほど、価値の取り戻しを求めるようになる。
◆もし自分と言いう存在そのもの、アイデンティティ抜きの「本来」の「わたし」に価値を実感することができれば、存在証明は不要となり、人は存在証明の悪循環から解放される。これを「存在証明から自由」と呼ぶことにする
◆価値の取り戻しと存在証明からの自由とは、概念上は異なるものの、現実には、未分化のまま渾然とした形で醸成されることが少なくない
◆「価値を増殖しようとする営みと価値」から自由になる営みと、あるいはアイデンティティへの自由とアイデンティティからの自由とは、アイデンティティ問題を解決するための手段と言う意味をはるかに越えて解放と共生の思想へと消化する可能性を含んでいる
◆価値の作り替えは卑怯であり下品だと言う人がいる。それなら謙遜や上品は傲慢である。
◆謙遜はことさら宣伝しなくとも、社会は自分を正しく評価・優遇してくれると社会を信頼するものほど維持しうる態度だから。
2016年8月31日水曜日
2016年8月13日土曜日
2016年8月11日木曜日
障害学への招待 第1章 長瀬修
第1章
◆障害学とは、障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動である
◆障害学にとって重要なのは、社会が障害者に対して設けている障壁、そしてこれまで否定的に受け止められることが多かった障害の経験の肯定的側面に目を向けること
◆米国の自立生活パラダイム、米国の社会理論、社会モデルの確立によって、個人の問題という視点から、環境、社会の排除、差別へと視点は転換してきた
◆新たな障害の視点の確立は、例えば歴史の分野でこれまで隠されてきた障害者の存在を明らかにし、従来の歴史に障害者も付け加えるだけでなく、従来の歴史が非障害者の視点から見た歴史であったことをあらわにする取り組みである
◆歴史の中で障害が隠蔽された一例として、ルーズベルトが39歳でポリオにかかり、それ以降歩くことができず、車イスを常用していたことは知られていなかった
◆1997年5月、首都ワシントンにFDRメモリアルが建設された際に大きな論争となったのは、ルーズベルトが車イスを使っている像を建立するべきかどうかだった
◆当時の米国社会全般が持っていた障害に対する強烈に否定的な眼差しがあっただろうし、ルーズベルト自身にも投影されていたに違いない
◆歴史の常識の見直しを障害学は提起している
◆米国の歴史学者のマーサ・エドワーズは古代ギリシャ、特にアテネとスパルタで障害新生児が殺されていたとする常識に対して、疑問を提起し、この事実を裏付ける根拠がほとんどないと指摘
◆この神話の最も重要な役割は、生まれてから殺す野蛮な古代ギリシャ人たちと違って、我々は障害者がまず生まれてこないことに最善を尽くしているという正当化にあるとする
◆花田春兆「盲人を主とした障害者の活躍が無ければ、これまでの日本の芸能文化は、遥かに痩せ細った姿しか見せられなかった」
◆英国での障害学の芽生えはチェシャーホームなどの入所施設に対する抵抗にある。そして運動と研究が一体となり、連動している点が英国の障害学の大きな特徴
◆ポール・ハントはチェシャーホームの入居者として活動を行っていた。入所施設は「社会的な死」を意味するとして、地域で暮らす権利を求めた。その活動が「隔離に反対する身体障害者連盟」(UPIAS)の結成に結びつく
◆UPIASのインペアメントとディスアビリティの定義
・インペアメント:手足の一部または全部の欠損、身体に欠陥のある肢体、器官または機構を持っていること
・ディスアビリティ:身体的なインペアメントを持つ人のことを全くまたはほとんど考慮せず、したがって社会活動の主流から彼らを排除している今日の社会組織によって生み出された不利益または活動の制約
◆焦点はディスアビリティにあり、ディスアビリティとは、インペアメントを持つ人間に対する社会的抑圧の問題であるとする
◆英国での障害学の発展に大きな役割を果たしてきているのが、研究誌「ディスアビリティと社会」
◆同誌の編集委員フィンケルシュタインは、81年の障害者インターナショナル(DPI)の結成にも馳せ参じ、理論面で大きな貢献を行っている
◆フィンケルシュタインと並んで、英国の障害学の形成に大きな役割を果たしてきたのが、オリバーである。
◆オリバーは90年の「障害の政治学」で、ディスアビリティを社会的抑圧とするUPIASの主張を理論的に展開した
◆自らを排除する社会、まさに「個人的なことは社会的なこと」という視点から、オリバーの目は自らを排除する社会組織に向いた。従来の個人モデル、医学モデルから脱却し、社会モデルが成立した
◆社会モデルは障害者を通じて特にDPIの思想となり、国際政治の面でも反映されてきている
◆英国の障害学の最大の成果である社会モデルに対する疑問が、障害者であるフェミニストから提起されてくる。
◆モリス「社会モデルには、我々の身体的差異、身体的制約は完全に社会によってもたらされているとし、我々の身体の経験を否定する傾向がある」
◆社会モデルは身体を隠蔽する役割を果たしてきたし、インペアメントを無視する機能を務めた。インペアメントへの介入はディスアビリティの問題ではないとして放置する役割を果たしてきた
◆その反省がリーズ大のストーンによる優生的な中国の母子保健法に関する研究に見られる。ストーンは中国政府の政策が、アバーレイの言う「重要な区別」の実践であり、それは先進国での実態と重なるとする
◆法律により、生まれた後は殺されること、虐待されることは許されない。しかし、法律や社会によって奨励されないまでも出生前の中絶は問題ないとされる
◆現在の英国の障害学の最大の拠点はリーズ大学の社会学・社会政策学部である
◆米国の障害学の発展には学会であるSDSが大きな役割を果たしてきた
◆障害学の発展の仕方は、研究誌が充実している英国、学会を中心としている米国と違いはあるが、共通点は障害者自身である研究者が主要な役割を果たしている点にある
◆研究される側、対象だった障害者自身が障害学の推進には中心的な役割を果たすことが不可欠
◆人生の中の重要度を考えた際に、インペアメントを取り除くことよりも、他を優先させることは十分あり得る。そして、さらに進めて、障害者である自分を大切にする。
◆青い芝の会の横塚晃一は「障害者も同じ人間だと言う言葉」に反発を感じて、映画「さようならCP」製作を考えたと語っている
◆違いを優劣に還元してしまいがちな土壌の中で、「差異」、「違い」を主張することは確かに困難である。しかし、「同じ人間である」地点に到達する前に考えなければならないことがたくさんある。
◆日本でも障害学の蓄積はすでに十分にある。ただ障害学という軸が意識されてこなかっただけである
つづき
第2章ー1
◆障害学とは、障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動である
◆障害学にとって重要なのは、社会が障害者に対して設けている障壁、そしてこれまで否定的に受け止められることが多かった障害の経験の肯定的側面に目を向けること
◆米国の自立生活パラダイム、米国の社会理論、社会モデルの確立によって、個人の問題という視点から、環境、社会の排除、差別へと視点は転換してきた
◆新たな障害の視点の確立は、例えば歴史の分野でこれまで隠されてきた障害者の存在を明らかにし、従来の歴史に障害者も付け加えるだけでなく、従来の歴史が非障害者の視点から見た歴史であったことをあらわにする取り組みである
◆歴史の中で障害が隠蔽された一例として、ルーズベルトが39歳でポリオにかかり、それ以降歩くことができず、車イスを常用していたことは知られていなかった
◆1997年5月、首都ワシントンにFDRメモリアルが建設された際に大きな論争となったのは、ルーズベルトが車イスを使っている像を建立するべきかどうかだった
◆当時の米国社会全般が持っていた障害に対する強烈に否定的な眼差しがあっただろうし、ルーズベルト自身にも投影されていたに違いない
◆歴史の常識の見直しを障害学は提起している
◆米国の歴史学者のマーサ・エドワーズは古代ギリシャ、特にアテネとスパルタで障害新生児が殺されていたとする常識に対して、疑問を提起し、この事実を裏付ける根拠がほとんどないと指摘
◆この神話の最も重要な役割は、生まれてから殺す野蛮な古代ギリシャ人たちと違って、我々は障害者がまず生まれてこないことに最善を尽くしているという正当化にあるとする
◆花田春兆「盲人を主とした障害者の活躍が無ければ、これまでの日本の芸能文化は、遥かに痩せ細った姿しか見せられなかった」
◆英国での障害学の芽生えはチェシャーホームなどの入所施設に対する抵抗にある。そして運動と研究が一体となり、連動している点が英国の障害学の大きな特徴
◆ポール・ハントはチェシャーホームの入居者として活動を行っていた。入所施設は「社会的な死」を意味するとして、地域で暮らす権利を求めた。その活動が「隔離に反対する身体障害者連盟」(UPIAS)の結成に結びつく
◆UPIASのインペアメントとディスアビリティの定義
・インペアメント:手足の一部または全部の欠損、身体に欠陥のある肢体、器官または機構を持っていること
・ディスアビリティ:身体的なインペアメントを持つ人のことを全くまたはほとんど考慮せず、したがって社会活動の主流から彼らを排除している今日の社会組織によって生み出された不利益または活動の制約
◆焦点はディスアビリティにあり、ディスアビリティとは、インペアメントを持つ人間に対する社会的抑圧の問題であるとする
◆英国での障害学の発展に大きな役割を果たしてきているのが、研究誌「ディスアビリティと社会」
◆同誌の編集委員フィンケルシュタインは、81年の障害者インターナショナル(DPI)の結成にも馳せ参じ、理論面で大きな貢献を行っている
◆フィンケルシュタインと並んで、英国の障害学の形成に大きな役割を果たしてきたのが、オリバーである。
◆オリバーは90年の「障害の政治学」で、ディスアビリティを社会的抑圧とするUPIASの主張を理論的に展開した
◆自らを排除する社会、まさに「個人的なことは社会的なこと」という視点から、オリバーの目は自らを排除する社会組織に向いた。従来の個人モデル、医学モデルから脱却し、社会モデルが成立した
◆社会モデルは障害者を通じて特にDPIの思想となり、国際政治の面でも反映されてきている
◆英国の障害学の最大の成果である社会モデルに対する疑問が、障害者であるフェミニストから提起されてくる。
◆モリス「社会モデルには、我々の身体的差異、身体的制約は完全に社会によってもたらされているとし、我々の身体の経験を否定する傾向がある」
◆社会モデルは身体を隠蔽する役割を果たしてきたし、インペアメントを無視する機能を務めた。インペアメントへの介入はディスアビリティの問題ではないとして放置する役割を果たしてきた
◆その反省がリーズ大のストーンによる優生的な中国の母子保健法に関する研究に見られる。ストーンは中国政府の政策が、アバーレイの言う「重要な区別」の実践であり、それは先進国での実態と重なるとする
◆法律により、生まれた後は殺されること、虐待されることは許されない。しかし、法律や社会によって奨励されないまでも出生前の中絶は問題ないとされる
◆現在の英国の障害学の最大の拠点はリーズ大学の社会学・社会政策学部である
◆米国の障害学の発展には学会であるSDSが大きな役割を果たしてきた
◆障害学の発展の仕方は、研究誌が充実している英国、学会を中心としている米国と違いはあるが、共通点は障害者自身である研究者が主要な役割を果たしている点にある
◆研究される側、対象だった障害者自身が障害学の推進には中心的な役割を果たすことが不可欠
◆人生の中の重要度を考えた際に、インペアメントを取り除くことよりも、他を優先させることは十分あり得る。そして、さらに進めて、障害者である自分を大切にする。
◆青い芝の会の横塚晃一は「障害者も同じ人間だと言う言葉」に反発を感じて、映画「さようならCP」製作を考えたと語っている
◆違いを優劣に還元してしまいがちな土壌の中で、「差異」、「違い」を主張することは確かに困難である。しかし、「同じ人間である」地点に到達する前に考えなければならないことがたくさんある。
◆日本でも障害学の蓄積はすでに十分にある。ただ障害学という軸が意識されてこなかっただけである
つづき
第2章ー1
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