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2017年3月24日金曜日

青木新門 納棺夫日記 その4 ラスト

前回
その3

◆<死>についていくら生者が頭で考えても似て非なる死のイメージを生むだけなのである。似て非なる死の概念は、現実の死に直面したとき何の役にも立たない概念となる。
◆問題なのは、どこに視点を置いて死体と対峙していたかということ。問題は、死や死体や死者を前にして、己の生死の問題として、どこまで真摯に関わっているかということである
◆体で悟った現場の知を、近代思想を身に付けた世に言う知識人たちは、理性で理解しようとするから永遠に心の理解が得られないだけなのである

◆宗教の信じるという行為の陥りやすい欠陥は、信者の科学的知識の範囲を超えた事象を全て己の信じる宗教のせいにしてしまうところにあるようだ。だから熱心な信者にも、科学の進歩に対応した善知識の聴聞が常に必要とされてくる

◆ケビン・カーターの写真
















◆昔、瞑想と禁欲の世界に生きる行者たちの多くは、死期をさとると断食の行に入っていったそうである。断食というのは、その字の通り食を断つことであるが、最初は五穀を断って木の実、木の根のみを食べる木食の行から入り、やがて葉先の露のみの完全な断食へと入ってゆく
◆「根源的現象に出会うと、感覚的な人たちは驚嘆の中へ逃げ込むし、知性的な人たちは最も高貴なものを最も卑俗なものと結びつけて分かったと思うとする」ゲーテ

◆りんごを分析し詳しく解説できても、りんごを食べたことがなければ、その味は分らない。たとえ分かったとしても、理屈では伝わらない。しかし世に言うエリートはしたり顔で伝えようとするのである
◆生や死は、現場の事実であって正にりんごを食べることなのである

◆詐欺の本質は成りきる才能だから、簡単に悟った尊師に変身し、事故の欲望は仏の本願とすりかえられ、何をやっても仏や神の意思であって自分の責任ではなくなってしまう
◆こうした宗教が出てくるのも、既存の宗教側にも、多くの原因がある。その最大の要因は、「悟り」を説きながら悟りに至る努力もしない聖道門の僧職者たちや「信」を説きながら真に阿弥陀を信じようともしない浄土門の僧侶たちが、教条的に「信をとれ」と言ったりしているところに起因する
◆「なぜ、修行者たちは同一のことを語らないのか。まことに真実はただ一つであって、第二の真実というものはない。だからその真実を知ったものは争わない」スッタニパータ(原始仏典)
◆寿命が延びたのは確かだが、その裏側には「生の意味」の喪失が、暗く張り付いていた
◆死に背を向けてゆく生の追求は、さらなる生の喪失なのであった





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2017年3月22日水曜日

青木新門 納棺夫日記 その3

前回
その2

◆あらゆる宗教の教祖に共通することは、その生涯ある時点において、<ひかり>との出合いがあることである。
◆今日の既存宗教教団などに見られる混迷は、生き方の会議ばかりが忙しく、行き先が明確でないところに問題があるようだ。イメージが、はっきりしていないのだ。

◆あらゆるものへ感謝があふれ出る現象を、回向のことであると言ったが、この回向こそが、浄土真宗の根幹をなす思想なのである
◆親鸞は、「教行信証」の冒頭に、
 謹んで浄土真宗を按ずるに二種の回向あり
 一つには往相、二つには還相なり
 と、浄土真宗の最大の特徴は、二種の回向であると書き出している
◆親鸞以前までの回向は、自分の積んだ善根を仏の方へさしむけることであったが、親鸞は逆に、仏の方から衆生の方へ向かうのが回向であるとした。
◆仏派の感謝が往相回向で、その仏からの慈悲が還相思考であるとし、この二種の回向がおのずから同時にはたらく現象を、光如来の本願ととらえた
◆親鸞の思想の大きな特徴の一つは、光如来に出合って<死即仏>となること。如来によって死即仏となるから、引導もいらないし、位牌も、手甲脚絆も、六文銭も、杖もいらない。三途の川も閻魔大王も関係ないから、追善供養も必要ない。だから真宗では追善供養と言わないで、法要とか報恩講といっている。
◆しかし、中有まで完全に否定したのではない。
◆我が国のほとんどの宗教では人が死んでも霊魂がさまようことが前提となっている。しかし、親鸞は何日間も、何カ月間も、さ迷う霊魂に関しては完全に否定していた
◆さんたんたる景色(現世)を横目で見ながら、すきとおる空(浄土)へと直行するわけで、死はどこにもない。そこには死もないから<往生>という。死さえなかった。あったのは大涅槃だけであった。
◆釈迦の説いた仏教の教理は、すべて実践との関係においてのみ意義が認められているのであって、実践に関係の無い形而上学の問題には、釈迦は答えられていない

◆親鸞の阿弥陀信仰は、どのような者でも<無碍なる不可思議な光>に必ず出合えるという絶対の確信からきている。そして中途半端な修行など、当時の庶民の生活苦よりお粗末であることを、比叡山の山中で二十年もいやというほど見せつけられてきたのである
◆釈迦のような苦行をするならともかく、中途半端な修行の途上にいながら、さも覚者のような顔をして成仏の引導まで行っている。このことは、八百年前の親鸞の時代も今日も、さして変わりなさそうである

◆詩人たちは一様に、物への執着がなく、そのくせ力もないのに人への思いやりや優しさが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋で美しいものにあこがれながら、愛欲や酒に醜く溺れ、死を見つめているわりに、以上に生に執着したりしている
◆生を維持するために他の生を犠牲にして生を保ってゆくしかない。そんな中で、菩薩が人間の肉体を備えたままその生を維持してゆくこと自体不可能なことである

◆源信、法然、明恵、道元、一遍、親鸞、これら高僧たちはおしなべて、十歳未満で父母との別離に出会っている。蓮如も、幼い日に母との別離があった。こうした幼い日の悲しみの光は、いつまでも残り、その人生に大きな影響を与えてゆく

◆今日の科学は、哲学や宗教をのり越えようとしている。とは言っても現在のところ、哲学や宗教が停滞しているためそのように見えるだけで、実際は科学でわかった範囲など微々たるもので、のり越えるどころではない
◆宗教がどれくらい科学の立証に耐えるかによって、今後の宗教が歴史に残るかどうか決まるかもしれない
◆<死>は医者が見つめ、<死体>は葬儀屋が見つめ、<死者>は愛する人が見つめ、僧侶は<死も死体も死者も>なるべく見ないようにして、お布施を数えているといった現状があるかぎり、今日の宗教に何かを期待する方が無理と言えよう。
◆宗教が現場の死生感を説くことができなくなったとき、その宗教は生気が失われ、滅びへ向かうのは当然である
◆死の不安におののく末期患者に安心を与えることができるのは、その患者より死に近いところに立たない限り、役に立たないということになる。たとえ善意の優しい言葉であっても、末期患者にはかえって負担となる場合が多い

つづき
その4




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2017年3月20日月曜日

青木新門 納棺夫日記 その2

前回
その1

◆人は誰もが、死ぬ時には美しく死にたいと思っている。しかし美しく死ぬとはどのようなことかはっきりしない。
◆「ところで君、どう思うかね。今、しらゆり会(献体登録の会)に登録されている人の50パーセントはクリスチャンだよ、信徒1パーセントにも満たないこの地でだよ。<われ閉眼せば賀茂川に入れて魚にあたうべし>と言ったのは親鸞だろう。その親鸞の浄土真宗の信徒が80パーセントの北陸でだよ」

◆最近中国でこんな事件があったと、新聞に載っていた。中国の農村で、当局が土葬を禁止し、火葬にするとのお触れを出したところ、火葬されれば天国にいけなくなると、老人が次々に自殺した事件である
◆三島の死は社会から疎外された近代知識人特有の死であると言える。実際、自殺ほど社会に迷惑をかける死に方はない。それは、自殺という行為が共同社会からの疎外された者の孤独な解決方法に起因しているからであろう
◆わが国経済の高度成長とともに、枯れ枝のような死体は見られなくなっていた。今日、事故死や自殺以外は、ほとんど病院死亡である。昔は口から食べ物がとれない状態になったら、枯れ枝のようにやせ細ってゆくしかなかったが、今では点滴で栄養が補給されるため、以前のようにやせ細った状態にならない。

◆死に直面した患者にとって、冷たい機器の中で一人ぼっちで死と対峙するようにセットされる。しかし、結局は死について思うことも、誰かにアドバイスを受けることもなく、死を迎えることとなる
◆集中治療室などへ入れられれば、面会も許されないから「がんばって」もないが、無数のゴム管やコードで機器や計器につながれ、死を受け入れて光の世界に彷徨しようとすると、ナースセンターの監視計器にすぐ感知され、バタバタと走ってきた看護婦や医師によって注射をうたれたり、頬をパタパタ叩かれたりするのである
◆特に我々が生死を云々する場合、<生>にスタンスを置いての一方的な発言であって、<死>にスタンスを置いての発言はありえない。しかし、釈迦や親鸞は、生死を超えたところから言葉を発している
◆視点の移動をしないで、<生>にだけ立脚して、いくら<死>のことを思いめぐらしても、それは推論から仮説でしかないであろう。死後の世界へ旅立つことが、白い巡礼の衣装をまとい、杖をもち、六文銭を首にかけ三途の川を渡ることだというような発想は、生の思考の延長上から生まれたものにほかならない
◆理論物理学などでは、仮説の新理論が実証確認できなければ歴史から抹殺されてしまうが、死後の世界の仮説は、奇跡に頼るしか実証方法がないため、あらゆる仮説が生き残り、巧妙に組み立てられた仮説や神話などは、何千年も世にはびこることとなる。

◆会葬者も、遺体に合掌したり、遺影に手を合わせたり、祭壇や霊柩車に合掌したり、火葬場の煙突の煙にまでに合掌したりしている。ところが、肝心のご本尊にはあまり手を合わせていない。僧侶の唱えるお経は、何を言っているのか分らないし、死者がどこへ行ったか分からないから、思いつくまま手当たり次第手を合わせている
◆葬礼儀式と言う仕事に携わって困惑し驚いたことは、一件深い意味をもつように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知ったことである。迷信や俗信をよくぞここまで具体化し、儀式として形式化できたものだと思うほどである
◆今日の仏教装儀式に見られる姿は、釈迦や親鸞の思いとは程遠い物であろう。極端に言えば、アニミズムと死体崇拝という原始宗教と変わらない内容を、表向きだけは現代的に行っていると言っても言い過ぎではない

続き
その3



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2017年3月16日木曜日

青木新門 納棺夫日記 その1

知ってる人は知ってると思うが、
本木雅弘主演で映画化された「おくりびと」の原作の本である。

私も「おくりびと」は昔見たことがあったので、
その原作小説なのかなぁという程度で読み始めた。

が、全然違った。

本編は全3章、文庫にして140ページという手の伸びやすいサイズ。
1章は確かに「おくりびと」の原作となるようなエッセイだった。

この話自体、私はそういう職業の人にスポットライトを当てた創作話だと思っていたが、
実際は作家であるこの作者自身が、経営していた店が潰れて、
仕事を探し、葬儀屋へ就職した経験を基にしたエッセイだった。

問題は第2章以降である。

そもそも早稲田を中退して文学の道を目指していた青木氏。
目の付け所も考える力も素養がある。

そんな氏が仕事で日々、死と向き合う。
大概の人はそこで目を逸らす。
そこにある亡骸をモノのように考え、慣れようとする。

ただ、作者は見つめた。
「我々はどこへ行くのか?」
そして深く深く悩み、考察していく。

今回は第1章です。


◆湯灌というのは、長い間寝たきりの状態で死亡した死者を送り出すとき、せめてきれいな体にしてあげようと、全身を洗い清めた風習である。今日では、だんだん病院脂肪が多くなり、アルコールで吹くという方式に変わってきている。
◆葬儀屋の社会的地位は最低であるし、納棺夫や火葬夫となると、死や死体が忌み嫌われるように嫌われているのが現状である
◆職業に貴賤はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実がある限り、納棺夫や火葬夫はみじめである
◆死をタブー視する社会通念を云々していながら、自分自身その社会通念の延長線上にいることに気づいていなかった。社会通念を変えたければ、自分の心を変えればいいのだ。心が変われば、行動が変わる
◆自分の職業を卑下し、携わっているそのことに劣等感を抱きながら、金だけにこだわる姿勢からは、職業の社会的地位など望むべきもない。それでいて、社会から白い目で見られることを社会の所為にし、社会を恨んだりしている。己の携わっている仕事の本質から目をそらして、その仕事が成ったり、人から信頼される職業となるはずがない

◆「ケガレ」の内容は、既に古代の「延喜式」の中に細かく規定されている。その中でも、特に死穢(しえ)と血穢(けつえ)は穢れの最もたるものとされている
◆死穢とは、死や死者を不浄なものとしてとらえ、死や死者に纏わる一切のものは不浄なものとされる。また血穢は、怪我などの出血の「けが」の意味もあるが、女の出血(月経)の穢れが強調され、やがて女性そのものが穢れた存在とされてゆく
◆糞尿も汚穢(おわい)ということで穢れの対象であった
◆どうしても隔離したり遠ざけたりできない場合に、不浄や穢れを浄化する儀式としてオハライやキヨメを行い、一瞬にしてハレに転換する
◆なぜキヨメに塩なのかという問いに「古事記」に出てくる神話によるとする説もある

◆西洋の思想では、生か死であって<生死>というとらえ方はない。その点東洋の思想、特に仏教は、生死を一体としてとらえてきた
◆死の占める割合が多い時代では、死は多く語られ、時には美化される傾向にあり、今日のように日常生活の中にも思想の中にも死が見当たらないような生の時代には、死は敗北であり悪であるとする傾向になる。
◆既存の宗教は、時代の変化についていけないようである。人生の四苦である生・老・病・死を解決することが本来の目的であったはずの仏教が、死後の葬式や法要にスタンスを移し、目的を見失ったまま教条的な説教を繰り返しているというありさまである。

つづき
その2




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2017年2月19日日曜日

次代を担う医療者のための 地域医療実践読本  中根 晴幸

埼玉県さいたま市で在宅医療を行っている「医療法人明医研」を経営する中根先生。

元々はさいたま市立病院で地域開放病床などの立ち上げに貢献されていた方ですが、
課題を感じて市立病院との地域連携を見越した位置に診療所を開設。

在宅医療にも積極的に取り組み、
外来にも力を入れつつ地域医療に貢献されています。

患者さんに最も身近であるかかりつけ医が質を高め、
病気を見逃さないという姿勢に感銘を受けました。
もし自分がかかる場合もこちらにかかりたいと思う。
逆にこういうモデルが身近に広がって欲しいと思いました。

「医療者のための」という冠が付いていますが、
リアルな症例数がいっぱい載っていて、
現場感覚が無いと悩んでいる事務官などにもおすすめ。

あと衝撃だったのは、在宅専門の医療機関が、
軽傷の患者さんだけ診て、
ちょっと重症の患者さんがいると救急車を呼ぶということ。

在宅専門の医療機関は28年度改定で締め付けられましたが、
まだまだ動向を見てみる必要がありそうですね。。。

以下は私的メモです。
抜き書きではないです。

◆在宅:病院では対応しきれない医療
◆高度医療でも治し切れない→強化された在宅が必要
◆地域包括ケア:いかに地域の中で医療とケアを最小限の社会負担で提供するか
◆在宅医療は生活支援という異領域への医師への呼びかけ
◆専門家は一生懸命その病気を治療をしても別の病気を見逃してしまう
◆総合診療医の役割を果たすかかりつけ医を持つ
◆在院平均日数の短縮⇒まだ治療の必要がある状態での退院
◆フランスでは基幹病院に入院すると同時に入院計画が立てられ、振り分けられ、退院先が決まる
◆患者が受診先を決めるのは不合理⇒総合診療医が必要

◆看取り件数などは指標としては分りやすいが、数字に表れない熱意も評価されるべき
◆数字の後ろには苦しんでいる人達がいる。
◆在宅以外でやっていける医療機関では、在宅に行かない医師も多い

◆尊厳死とは医療を断ることではない
◆医療とは自然を乗り越えることのはずだ
◆IVH(TPN):中心静脈栄養法 CV:中心静脈

◆開放型病床と運営(そのやり方は誰のため?患者のためになっているか?医師の勉強のため?)
◆開放型病床は入口である出口である

◆地域包括ケア⇒目標はあるけど、具体的に何をやっていいか分らない状態になっている
◆病院が在宅に出すオーダー内容は病院でしかできない場合がある
◆在宅は、在宅医の高齢化と若手医師のやりがいの問題がある

◆医師の往診と同一日には訪問看護が入れない診療報酬体系
◆在宅でも介護が主体の症例と、医療が主体の症例がある
◆診療と病院のタイミング観の違いがあり、調整が必要

◆診療所でなければできない医療
 ①病院の延長の医療
 ②回復不良
 ③ニーズの多様化
◆多床室では睡眠が妨げられる
◆回復期には特別な医療は行われていない
◆市立病院との連携を見越した立地
◆急性期の看護師は退院をゴールと考えがち
◆浦和方式
◆治りきらない病気は多い

◆IVHは患者からの満足も高いが、消耗器材も薬液も高価すぎる
◆質が高いということは新しい設備ではない⇒清潔さや精確さ
◆在宅専門が急変時に救急車を呼んでしまう
◆材料の調達、管理が大前提
◆服薬指導の効果

◆薬剤師がマットレスなどの福祉用具専門相談員を取得
◆多機能薬局
◆多職種連携は医・看・薬と連携病院。そこができてからコメディカル。
◆柏プロジェクト⇒社会学的な起点

◆総合的な力がない診療所は地域では役に立たない
◆定期的に専門医を招いてフォロー
◆病変を早期に診断できる機会が増えた
◆地域で日常的に医療を必要としている人たちは、ほとんどが外来患者
◆まず外来で患者をしっかり診ていること、それによって地域との結びつきができていることが大切
◆在宅専門は高額な初期投資が不要、スタッフを集めやすく企業として魅力があるに違いはないが…

◆病院主治医が多忙の中で専門領域以外のがんを見逃すことはあり得る
◆かかりつけ医の責任領域
 ①がんを見逃さない
 ②認知症のエキスパートになる
 ③フレイルの人々を守る
◆医師が勉強し、経験して知っていることを役立てるのは医師なら当然

◆安心できる医療環境づくりは行政の責任
◆治せる肺炎は治せる社会であるべき
◆新しい医療を地域に届ける
◆これからの時代には、必然的に多職種が連携する医療が求められる




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2017年1月27日金曜日

最近作ったまとめ~平成30年に向けて~

最近作ったまとめです。

平成30年度は同時改定。
薬価制度改革に医療計画・介護保険計画の更新。
地域医療構想。
色んなものが目白押し。
ぼやぼやしてると置いてかれます。

ブックマークに入れて、
こまめにチェックしてみてください。
一緒に追っかけましょう。

 【平成30年度】中央社会保険医療協議会(中医協)総会資料まとめ【同時改定】
https://matome.naver.jp/odai/2148515074542136001

【オプジーボ・キイトルーダ】中医協薬価専門部会 薬価制度の抜本改革 資料まとめ【高額薬剤】
https://matome.naver.jp/odai/2148541420388691901

高額療養費制度70歳以上の自己負担限度額の見直し経緯まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2148219460685542901



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2016年3月17日木曜日