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2017年5月4日木曜日

ライ麦畑でつかまえて サリンジャー(野崎孝 訳)その2 ラスト

ラストです!

前回
その1

◆僕は、ひとが安物のスーツケースを持っていられると、その人までいやになりかねないんんだな。その人を見るのがいやなんだよ。

◆金の野郎め!いつだって、しまいには、必ずひとのことを憂鬱にさせやがる

◆この博物館で、一番良かったのは、すべての物がいつもと同じとこに置いてあったことだ。誰も位置を動かさないんだよ。何一つ変わらないんだ。変わるのはただこっちのほうさ。

◆僕には、退屈な男ってものがわかっていないんだ。すばらしい女の子が退屈な男と結婚するのを見ても、あんまりカワイソがることはないのかもしれない。退屈な男といったって、たいていは、ひとを傷つけるわけじゃないし、それに、ひょっとしたら口笛の名人やなんかだったりすることもあるわけだからな。わかったもんじゃないよ。とにかく僕にはわかんないね。

◆何でもそうだけど、あんまりうまくなるとだな、よっぽど気をつけないと、すぐこれ見よがしになっちまうんだ。

◆いつか、君、男の学校へ行ってみるといい。インチキ野郎でいっぱいだから。やることといったら、将来キャディラックが変えるような身分になるために物をおぼえようというんで勉強するだけなんだ。

◆大学やなんかへ行ったりした後では、すばらしいとこへなんか行けやしないって言ったのさ。ぜんぜん変わっちまうよ。

◆女の子の困ったとこは、男の子に好意を持つと、そいつがどんなに下司な野郎であっても、劣等意識を持ってるって言うんだな。反対にきらいな男の子だと、どんあにいい奴であろうと、どんなに劣等意識を持っていようと、そいつのことをうぬぼれてると言っちまうんだ。頭のいい子でさえ、そうなんだから。

◆隣に女の人が坐ってて、これが映画の間じゅう、泣き通しなんだよ。映画が嘘っぱちになればばるほどますます泣くんだな。そんなに泣くのは、その人がすごくやさしい心の持主だからと思うだろうけど、僕はすぐ隣に坐ってたんだが、違うんだね。この女の人は子供を連れててね、その子がひどく退屈して、おまけにトイレに行きたくてたまんないのに、連れて行こうとしないんだ。じっと坐って行儀よくしてろって、そう言うばかしなんだ。

◆知的な連中というのは、自分がその場を牛耳るんでないかぎり、知的な会話をしたがらないものなんだ。自分が黙るときには、きまって、相手にも黙らせたがるし、自分が自分の部屋へ引き上げるときには、相手にもそれぞれの部屋へ引き上げさせたがる。

◆人を憂鬱にするには悪人でなければならんということはないからな。善人だって人を憂鬱にできるんだから。

◆死んだからというだけで、好きであるのをやめやしないやね。ことにそれが、知っている人で、生きてる人の千倍ほどもいい人だったら、なおさらそうだよ

◆たいていの場合は、たいして興味のないようなことを話しだしてみて、はじめて、何に一番興味があるかわかるってことなんです。

◆堕ちて行く人間には、さわってわかるような、あるいはぶつかって音が聞こえるような底というものがない

◆学校教育には、他にもまだ、君の役に立つことがある。相当のところまでこれを続けて行けば、自分の頭のサイズはいくつかということが、わかりかけてくるんだ。何が自分の頭に会うか、それから同時に、何が合わないかということもたぶんね。しばらくうちに、特定のサイズを持った自分のこの頭には、どんな種類の思想をかぶったらいいかということもわかってくる。




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2017年4月23日日曜日

ライ麦畑でつかまえて サリンジャー(野崎孝 訳)その1

個人的には凄く面白かった。
有吉のラジオが好きな人にはとてもお勧めしたい。
⇒ここわかってくれる人いないのだろうか。

若者特有の社会に対する倦怠感や嫌悪感のサーチ能力を絶妙なバランスで投入し、
それゆえ本質を突いちゃうところとか、
全くしっちゃかめっちゃかで社会的ではなくなるところとか、
心がムズムズする今の時期には最高の読みものでした。

村上春樹版も買ったので読み比べてみようと思っている。


◆もしも優秀な奴らがずらっと揃ってる側についてるんなら、人生は競技で結構だろうよ-そいつは僕も認めるさ。ところが、優秀な奴なんか一人もいない相手がについてたらどうなるんだ。そのときは、人生、なにが競技だい?とんでもない。競技でなんかあるもんか。

◆ストラドレーターのだらしなさは、もっとひと目につきにくいんだよ。一見したところでは、なんでもないんだ、ストラドレーターってのは。しかし、たとえばだよ、あいつがひげを剃る剃刀を見てみるがいい。いつもすごく錆びててだね、石鹸の泡だとか毛だとかなんとかが、いっぱいくっついんだ。
◆僕みたいにあいつを知ってる人間にいわせれば、人目につかないながら、やっぱしだらしのない野郎に変わりはないね。
すごい美男子がいるとするね、あるいは自分を優秀な人間と思ってる奴でもいいや、そういう人間は、きまって人に、ものを頼みやがるぜ。自分が自分に惚れてるもんだから、相手も自分に惚れてるものと思ってさ、死ぬほど頼まれたがってると思い込んでやがんだ。

◆とっても馬鹿な女の子の中に、ダンス・フロアに立たせると、本当に感心させられるようなものがいるものなんだ。それが本当に頭のいい女の子の場合だと、踊ってる間の半分ぐらいは、逆にこっちをリードしようとするんだな。さもなきゃてんで下手くそだったりさ。そんなのが相手のときは、テーブルから立たないで、いっしょに飲んで酔っ払うのが一番だよ

◆中にはからかっちゃいけない人間もいるんだよ、それがたとえ、からかわれたって仕方のない人間であってもだ。

◆彼の演奏を聞くのは、僕はたしかに好きなんだけど、でもときどき、あいつのピアノをひっくり返してやりたくなることがあるんだよ。それはたぶん、あいつの演奏を聞いてると、一流人でなければ話しかけようとしない男っていう、そんな感じがにおうからじゃないかと思う。
◆僕は、演奏が終わったとき、アーニーが少し気の毒になったんだな。あいつは、自分の演奏がそれでいいのかどうかも、もうわかんなくなってんじゃないかと思うんだ。それは彼だけの罪じゃないんだな。一部分は、頭がすっとぶほどに喝采するああいう間抜けどもの責任でもあるんだ

◆彼女は通路をふさいじまって、ぜんぜん人が通れなくなってるんだけど、そんなふうに自分が人を通れなくしてるってのが彼女にはいい気持ちなんだな。
◆あってうれしくもなんともない人に向かって「お目にかかれてうれしかった」って言ってるんだから。でも、生きていたいと思えば、こういうことを言わなきゃならないものなんだ。

◆せっかくひとがすすめたのに、感謝の言葉を言わないんだ。それぐらいの頭しかないんだよ。

つづき
その2 ラスト



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2016年5月24日火曜日

千のプラトー ジル・ドゥールズ フェリックス・ガタリ その2


序 リゾームのその2です。
勉強会行って、解説というか筆者の概念についての講義を受けたら、
本当に何が言いたかったかよく分かった。
すげえなあ。

nマイナス1とは何か。
この意味が分かっただけで全部筋が通った。


◆精神分析と言語学を見るがよい。前者はただ無意識の複写または写真しか作ったためしがなく、後者は言語の複写または写真しか撮ったためしがなくて、そこには予想されるあらゆる裏切りがともなっている
◆リゾームがふさがれ、樹木かされてしまったら、もうおしまいで、もはや何一つ欲望から出てきはしない。
◆子供が家族のうちにみずからを根づかせ、父の姿のもとで写真に撮られ、母のベッド複写されている以上、いかにそれらの逃走線が封鎖されているか

◆樹木ー根の極微な要素である測根が、リゾームを生み出す糸口になることもある。簿記や役所仕事は複写によって進められるにもかかわらずそれらが発芽しはじめ、リゾームの茎を伸ばしはじめることもある。
◆長い記憶は樹木状であり、中心化されている。短い記憶は少しも、対象との隣接性あるいは直接性の法則にしたがっているわけではない
◆樹木状システムは序列的システムであって、意味性と主体化の中心、組織された記憶、そしてまた中心的自動装置を含んでいる
◆精神分析は無意識を樹木構造。無意識というものについての専制的考え方にもとづいて、それは独自の専制的権力を打ち立てる

◆どんなに樹木は西欧の現実と西欧の全思考を支配してきたことか
◆東洋、とりわけオセアニアには、あらゆる点から見て樹木という西欧的モデルに対立するリゾーム的モデルのようなものがありはしないか
◆アメリカにはさまざまな方向が存在する。東部においては樹木状の探求と旧世界への回帰が行われる。けれども西部はリゾーム状なのだ
◆アメリカにはすべてが集合しており、それは樹木であると同時に水路、根であると同時にリゾームなのだ
◆重要なのは、樹木ー根とリゾームー水路とが二つのモデルとして対立するのではないということだ

◆プラトーはつねに真ん中にある。初めてでも終わりでもない。リゾームはもろもろのプラトーからなっている。
◆さまざまな強度の連続する地帯、みずからの上に打ち震え、何かある頂点へ、あるいは外在的目標に向かうあらゆる方向づけを回避しつつ展開される地帯である
◆一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれはプラトーと呼ぶ
◆アレンジメントとは領野のそれぞれから取ってきたいくつかの多様体を連結する
◆教養的なものとしての本は、必然的に複写であるしかない
◆リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ




 

2016年5月21日土曜日

千のプラトー ジル・ドゥールズ フェリックス・ガタリ その1

勉強会の課題図書。
名前は聞いたことがあったんですが、初読です。


勉強会前に序章を読んだのですが、難しい。汗
何とか追いつけるようにまとめてみます。


◆測定可能なもろもろの線や速度は、一つのアレンジメントを形成する。本とはそのようなアレンジメントであり、そのようなものとして、何者にも帰属しえない
◆本には対象などというものもない。アレンジメントとしての本は、それ自体他のさまざまなアレンジメントと接続され、他のさまざまな器官なき身体にかかわるだけ


◆本の第一のタイプは、根としての本。樹木はすでに世界のイマージュである、あるいは根は世界としての樹木のイマージュである
◆本は世界を模倣するのだ、芸術が自然を模倣するように。
◆この手法は自然がなしえないこと、あるいはもはやしえなくなったことを巧みに成功させる。1が2になる。


◆側根システム、またはひげ根のシステムは、本の第二の形であり、これは現代の人々が好んで援用するものである。
◆世界はその軸を失ってしまい、主体はもはや二分法を実行することさえできないが、しかしより高い統一へ、両義性によるものか多元的決定によるものか、とにかくより高い統一へと、そのたいしょうのじげんに対してつねに補完的な次元において到達する。
◆世界は混沌となってしまった、けれども本は世界のイマージュ、つまり側根としてのの混沌=秩序宇宙であり続ける。根としての秩序=宇宙である代わりに。


◆〈多〉、それは作り出さねばならない。
◆設定すべき多様体から一なるものを引くこと、nマイナス1で書くこと。このようなシステムはリゾーム〔根茎〕と呼ばれうる
◆リゾームの特徴
・1.2 連結と非等質の原理
  :リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合されうるし、接合されるべきものである。
  :特性のひとつひとつが必ずしも言語学的特性にかかわりはしない
  :もろもろの記号の体制とそれらの対象との間に根本的な切れめを設定することはできない
  :ヴァインリッヒ「母国語というものはなく、一個の政治的多様体における一個の支配的言語による権力奪取があるだけだ」
・3.多様性の原理
  :多様性には主体もなければ客体もなく、たださまざまな規定や大きさや、次元があるだけで、多様体が性質を変えないかぎり成長しえない
  :われわれは測定の諸統一を持たず、単に測定の多様性あるいは変動性を持つだけ
  :逃走線は多様体が実際に満たす一定数の有限な次元の現実を示すと同時に、多様体がこの線にしたがって変容することなしには、どんな補完的次元も不可能であることを示し、そうした多様体を、同じ一つの存立平面あるいは外在性の面の上に平たくする可能性と必要性を示す
  :本というものの理想は、すべてのものをこのような外在性の面の上、ただ一つのページの上、同じ一つの平面の上に広げることであろう
・4.非意味的切断の原理
  :諸構造を分かち、あるいは一つの構造を横断する、あまりに意味をもちすぎる切断に対抗するもの
  :脱領土化の動きと再領土化の過程とが相対的なものであり、絶えず接続され、互いにからみあっている
  :二項のうちの一方の脱領土化ともう一方の再領土化を保証し、二つの生成変化は諸強度の循環にしたがって連鎖をなしかつ交代で働き、この循環が脱領土化をつねによりいっそう推し進める
  :進化の図式は単に、分化の度合の最も小さいものから最も大きいものへと進む樹木的血統のモデルにしたがって作られるばかりではなくて、異質なものに直接働きかけ、すでに分化した一つの線からもう一つの線へと飛び移るリゾームにしたがって作られることになろう
  :血統による病や、それ自体を後の血統に伝える病によってよりも、多形態的かつリゾーム的な流感(*ウイルスなどなど)によって、われわれは進化し、かつ死ぬ。
・5.6 地図作製法および複写術の原理
  :リゾームとは地図であって複写ではない。
  :地図が複写に対立するのは、それがすべて、現実とじかにつながった実験の方へ向いているから
  :リゾームのいちばん重要な性質の一つは、つねに多数の入口を持つということ。これはつねに「同じもの」にもどる複写とは正反対
  :複写はすでに地図をイマージュに翻訳し、リゾームをすでに根や側根に変容させた。複写はその軸でえある意味性と主体化との軸にしたがって、もろもろの多様体を組織し、安定させ、中和させた。リゾームを生み、構造化したのだ。




時間がないのでここまで。汗
残りは追記します。




その2 序リゾームのつづき







2016年3月29日火曜日

生き延びるためのラカン 斎藤 環 3

最近お料理ブログみたいになってしまっていましたが、
すいません、米粉のレシピ本買ったのではまってるんです。

その1
その2

ラスト!
いやあ、面白い。
何か本質を突かれたようでドキッとしますよね。

去勢の定義とかはその2を参照しながら見ていただけると良いと思います。



lecture 10
・対象a:欲望の原因。小文字の他者を指す。
・移行対象:ウィニコットの考えた概念。子供が成長する過程で、なぜか手放そうとしない人形やタオルのことをいう。
・大文字の他者:象徴界のこと。

・欲望は、「欲しい物」、つまり目標が存在するから生まれるのではなく、「欲しい物を、金で(ネット)買える」という可能性こそが生み出している。
・その意味では「もっとお金が欲しい」という言葉を、「もっと欲望が欲しい」と解釈することもできる。


lecture 13
・フロイトが考えたヒステリーには転換ヒステリーと不安ヒステリーの2つある。
・転換:いろんな心の葛藤が、身体の症状に転換されること。


lecture 14
・性というのは、ラカンによれば、象徴的にしか決定されない。そして、そもそも言葉の世界である象徴界は、ファルス優位のシステムになっている。
・人間は、去勢されることで、つまりペニスの代わりにファルスを獲得することによって、この象徴界に参入する。
・享楽:快感や快楽を越えた、強烈な体験のことを指している。だから単純に快い体験だけではなく激しい苦痛なんかも含まれている。
・女性一般にそういう傾向があるが、とりわけ腐女子は関係性を重視する。彼女たちは、虚構作品に出てくるキャラクター同士の関係性が、次第に性愛的なものに変化していくダイナミズムを楽しんているらしい。

lecture 15
・ダブルバインド(板挟み):グレゴリー・ベイトソンが指摘した概念。
統合失調症の患者は、相手が「こちらへいらっしゃい」などと好意的な言葉を口にしながら、態度や表情が拒否的だったりすると、とたんに混乱してしまう。
・象徴界は、ファルスを中心にして構造化された言葉のシステム。あらゆる言葉(=シニフィアン)は、隠喩という連鎖をつうじて、すべてこの「ファルス」という、究極の象徴に関係を持っている。
・ラカンは精神病について、象徴界が故障した状態と考えた。ラカンはこれを「父の名の排除」と表現している。

lecture 16
・言葉で語るということは、それ自体がそのまま虚構化の手続きでもある。語る人の数だけ現実が生じてしまう。
・なんでトラウマが病気の原因になるのか、ラカンによれば、それはきわめて現実的な(虚構的でない)体験だから。
・一見大きく変化を遂げたかに見える人間の言動の中に、よくよく見れば、その人にとっても決定的な経験が反復されていることはしばしばある。むしろこの反復こそが人を人たらしめている要因の一つではないだろうか。
・精神病者にとっての言葉の価値は、我々とかなりずれてしまいがちである。僕たちにとって言葉は象徴にすぎないが、彼らにっとて言葉とは、かなり現実的なもの。
・フロイトは「不気味なもの」について、慣れ親しんだイメージが一種の他者性を帯びて現れることとして記述している。同じ意味で幻聴も、不気味かつ恐るべき他者として、主体を脅かす。

lecture 17
・夢分析、精神分析は患者と分析家の共同作業。
・自己分析というのは、けっして一般論を越えることができない
・ラカンの文脈でいえば、症状こそが人間の存在証明になる。手首に傷をつけて存在確認をしたりすることは、もう珍しいことではない。彼らの言動こそが、まさに「症状=存在証明」というラカン的事態を指示している。
・スラヴォイ・ジジェクは9・11テロについて、「日常という幻想がテロという現実に破られた」のではなく、「僕たちの現実が、イメージによって粉砕された」と考えるべきであると述べている。

lecture 18
・「常にすでに」
⇒いっけん反復に見えるけど、実は必ず一回限りの現象。逆に一回限りにみえるけど、どこかに反復的な要素をもっている現象。
・転移ある種の人間関係の中で、相手に無意識の欲望が向けられ、現実化させられる現象。
・精神科医が患者に自分のプライヴァシーを打ち明けるというのは、親密な雰囲気を作るというタテマエはあるにしても、ときには転移誘発のための「口説きのテクニック」になりかねない。権力関係を背景にした恋愛関係はほとんどが発端は転移性恋愛である。

lecture 19
・素行の悪い夫の相談をしている女性。目の前で話している彼女は、夫のひどさに十分気づいていないようでアドバイスをせざるをえなくなった。彼女の言葉を聞いたら、かなりの人がそういうアドバイスをしたくなるが、僕の言葉は僕自身のもというよりも、実は彼女に語らされていると考えるべきではないか。
・ふつう、システムは階層関係で成立している。「こころ」が面白いのは、階層のある神経系の上で立ち上がっているソフトウェアのくせに、階層関係を持っていない。
・ロジャー・ペンローズ「無意識にはアルゴリズムがあるけど、意識にはアルゴリズムが無い」
・ガリレオ「他人に何かを教えることなどできない。できるのは、自力で発見することを助けることのみだ」。このガリレオの言葉は、教育はおろか、転移というものの本質にすら射程が届いている。

ラカン
・きっと性愛が無かったら、僕たちは天井知らずに賢くなれたことだろう。でも、その賢さにはどんな意味があるのか?何の意味もない。


2016年3月7日月曜日

生き延びるためのラカン 斎藤環2

lecture 5
・これまで何度か出てきた言葉、「象徴界」は、シニフィアンが織りなす複雑なシステム。ラカンによれば、この象徴界の作用は、人間生活の全般に及んでいる。その作用は意識されることもあるが、無意識の部分がずっと多い。
・自分のことを鏡に映ったイメージで理解したつもりになった瞬間から、人間は「イメージ=実在物」という錯覚から逃げられなくなってしまった。どんなイメージも、それ単独では、事実として受け止められてしまいかねない。だから、それを虚構化するためには、言葉が必要である。
・最初の言葉は「存在」の代わりに、それを埋め合わせるために獲得される。「母親の不在」という現実を、「ママ」という虚構で覆い隠して安心するための手段でもある。

lecture 6
・人間はエディプス・コンプレックスを通過することで、はじめて象徴界に参入することができる。逆にいえば、この段階を経験しなければ、人間は言葉を語る存在になれない。エディプスなしでは、人間は人間になることすらできない。
・自分というものが十分にできあがっていない子どもは、欲望をあらわすにも「持つ」と「なる」の区別が曖昧。
・母親のペニスになるという幻想に、子供はながく留まることはできない。なぜなら、母親が本当は別のものを欲していることがわかってしまうからである。
・子どもはペニスの象徴(=ファルス)を作り出すことで、母親=世界におけるペニスの欠損を補おうとする。これはペニスの実存性をあきらめて、その模造品で満足しようという、大きな方向転換を意味している。象徴を獲得するということは、存在そのものの所有はあきらめる、ということと同じことを意味している。このあきらめのことを「去勢」と呼ぶ。

lecture 7
・創造界・象徴界・現実界という区分は、互いの位置関係が常に相対的に決まる。どんな認識においても、そこには言うなれば「認識のモード」として、この三界区分が存在する
・「連続性」と「切断性」も同じこと。連続が切断をみちびき、切断が連続を基礎づける、というわけだ。こういう心の二つの「極」は、まさに「去勢」によってもたらされるのではないか。

lecture 8
・鏡に映し出されたイメージの力を借りて、子どもがイメージをはじめて持てるようになる時期のことを鏡像段階とよぶ。

生き延びるためのラカン 斎藤環1

その1の更新から1か月。ひーっ、時が経つのは早い。汗







2016年2月7日日曜日

生き延びるためのラカン 斎藤環1

生き延びるためのラカン
2012年 斎藤環

東大でのラカン勉強会のために副読本として読んだ。
しかし、仕事が忙しくて勉強会自体には行けなかった。。。

この本自体は難解と言われるラカンを、読者に語りかけるように、
身近な例や社会問題を引きながらとても分かりやすく解説している。

というか厳密には、この分野に私は詳しいわけではないので分かった気になっている。
この分野を概観するにも、かなり良本だと思われる。
何度も読んだ方が良い本だと思う。

知らないこといっぱい。
この辺の精神分析関係の本はもっと読まなきゃなあ。

ちなみに表紙はジョジョの荒木飛呂彦先生。



lecture1
・あらゆる言葉は、ほかのすべての言葉と繋がり、ネットワークの中に位置づけられて、はじめて成り立つ。
・意味を決定付けるのは、言葉同士の関係と、その背景にある文脈の作用。

lecture2
・心は言葉でできていて、そのために伴い自由さ終えたけれども、同時に果てしない空虚さをも抱え込んだ。これは、ラカンの精神分析にとっては、かなり基本的な視点。
・僕たちは自分の抱えた欲望、その都度ちょっとずつ満たしてやることで、最終解決は先送りしながら生きている。もっと言えば、実は最終解決なんて、本当は存在しない。
・ともあれ、欲望の特徴が、その本質的な充足の不可能性にあることはわかった。それでは、その欲望はどこからくるんだろうか。
・大多数の人々がすごく貧しい時代は、誰も精神分析なんかに用はない。みんな食べることで精一杯だし、そこにはそこでは欲望は限りなく欲求に近いものになるわけだから。ある意味、欲望の追求も満足も、とても単純明快になされることになる。でも、時代が進んで、大体の人が衣食足りるようになってくると、人々の心も、その精神分析的な本質をあらわにするようになってくるんじゃないか。
・現代のように、ネットワークが幾重にも張り巡らされて以降は、こうした孤独は意志的に選択されなければ成立しなくなってくる。もっと正確に言えば、今や孤独な人はかつて以上に好き好んで孤独になっているという印象を持たれやすいため、孤独のまま放置されやすくなっているような気がする。
・ロハスやスローライフって言葉があるね。あれは要するに、引き算文化だ。あれもこれもと貪欲に頑張る人生をちょっと降りて、環境に配慮しつつ地域に根ざした、身の丈にあった生活を楽しみましょう、ということだよね。
・あえて欲望を抑制する文化も、僕には「満たされない欲望を持ちたい欲望」の産物に見える。

lecture3
・どんな人でも自分の欲望を説明するには、他人の尺度を思ってくるしかない。フロイトの天才的だったところは、欲望、つまり価値判断に「性」を持ち込んだところである。
・欲望のをもとにセクシャリティを想定すれば、欲望の最も個人的な理由に接近できる。それは人間の欲望の中で「性」が一番個人的なものだからである。
・言葉っていうものは、もちろん自分で創りだすものじゃない。成長とともに、親やテレビ、兄弟や友達などから、時間をかけて学習するものだ。
・言葉は自分の一部ではないし、完全に自分のものにもならない。言葉とは、子どもが初めて出会う、最初の大いなる他者である。だから言葉を学ぶことは、他者を自分にインストールすることである。

lecture4
・フロイトも自由連想法に至る以前は、患者に催眠をかけて過去のトラウマ思い出させて、忘れられていた感情解放することで治療するというカタルシス法行っていた。
・意味というのは、実は言葉のイメージ的な側面に過ぎない。言葉の本質は音にある。いわゆるシニフィアンである。
・言葉には2つの側面がある。一つはシニフィアン、つまり音で、もう一つはシニフィエ、つまりイメージ(意味)だ。
・言葉とその対象物、というふうに考えてはいけない。それだと言葉は単なる記号になってしまう。ここで大事なことは、シニフィアン(音)とシニフィエ(イメージ)の結びつきには、何の必然性もないということ。それからシニフィアンが喚起するイメージには、かなり幅があるということだ。例えば鳩という言葉が、鳩という鳥のイメージと同時に、平和とか祝福のイメージにも繋がる。
・単語が意味を持つのは、あくまでも他のこととの関係性、すなわち文脈の中でしか可能にならない。逆に言えば、文脈さえ分かっていれば、未知の言葉、つまり無意味な言葉であっても、なんとなく意味が見えてくる場合もある。

その2




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