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2017年8月22日火曜日

HDAC(ヒストンデアセチラーゼ)を因数分解して掘り下げた

HDAC:ヒストンデアセチラーゼ。ヒストンの脱アセチル化を行う酵素。
     遺伝子の転写制御において重要な役割

ヒストン:真核生物のクロマチンを構成する主要なたんぱく質

クロマチン:真核細胞内に存在するDNAとたんぱく質の複合体

アセチル化:有機化合物中にアセチル基が導入されること
脱アセチル化:有機化合物中からアセチル基が除かれる反応
         ⇒遺伝子の発現・転写が非活発化

アセチル基:アシル基の一種、酢酸からヒドロキシ基を取り除いたものにあたる1価の官能基

アシル基:オキソ酸からヒドロキシル基を取り除いた官能基

官能基:化合物に特定の科学的な性質を与える基

基:原子の集合体

価:原子が何個の他の原資と結合するかを表す数


結論:
HDACとは、真核生物の真核細胞内に存在するDNAとたんぱく質の複合体
を構成する主要なたんぱく質の有機化合物中から、酢酸からヒドロキシ基を取り除いたものにあたる、原子が何個の他の原資と結合するかを表す数が「1つ」の化合物に、特定の科学的な性質を与える原子の集合体が除かれる反応をさせる酵素。

いやあ、分かりやすいですね。

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2016年8月2日火曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第6章

前回
その5

ラストです!

第6章
◆場の中にいるということの中には、ある安定性がある。それは一時的なものではないし、あれこれの特定の状況に飲み関連しているものでもない
◆一般的な安定性というものは、かなりのストレスに対抗し得るし、専心と同じように、困難を克服することによって強化される
◆この安定性を基本的確実と表現しても、それで真実をつかんだとか確かな知識を持っているといえるわけではない
◆今あることやこれから起こることについて、絶対的保証を得たい気持や、それらについて確信したい気持ちからむしろ卒業することを、基本的確実は求める
◆基本的確実というのは、危険をはらんだこの世界で、かきみだされず、平成を保っていこうと禁欲的な決意をするような人の内側には存在し得ない
◆他者から必要とされていることが必要であり、他者が私を必要としていることと、私にとってそういう他者が必要であることとは密接に関係している
◆内面的なものと外面的なものの間に大きな差が出てきて、それが重大なものになってくると、私の行動は統一的にならない
◆私たちは基本的確実性を確立するためにケアするのではなく、ケアを中心にすえた生がこの安定性を持つ

◆現在生きている状態で十分であるということは、まさしく、生きることがある時点で完成するものではないという性格を物語っている
◆私たちの生が根本的に否定されたり、生きる過程が十分でないとされたりする経験をいくつか積むと、今度は逆にその経験が、では十分であるとは一体いかなる常態かということを示してくれる
◆もし私たちが偽ってほんとうの自分の姿を見せず、自分以外のものに見せかけようとすれば、やはり生きることの過程は、私たちにとって十分なものとは感じられない
◆ケアとは、それを実践することによって絶えず新しくなり、発展していく

〇了解性
◆了解性とは、私の生活に関連しているものは何か、私が何のために生きているのか、いったい私は何者なのか、何をしようとしているのか、これらを抽象的なかたちではなく、毎日の実生活の中で理解していくこと
◆了解性は、私たちが何かあるものに帰属しており、かつ、何者かから、あるいは誰かから自分たちが特別に必要とされているという感じをともなっている
◆了解性は、自分自身によって理解されケアされているという私自身の感じと密接に結びついている
◆了解性が、この世界の中で心を安んじている状態を示すという意味において、私たちは物事を支配したり、説明したり、評価したりすることによってではなく、まさにケアすることとケアされることをとおして、はじめて究極的に心を安んじることができる
◆了解性は、存在の持つはかり知れない性格を排除するのではなく、むしろ私たちがもっとそれに気づくようにする

◆生きる中での単純化というものは、生を浅薄にするよりも、成長させ意味づける働きを持つ”場の中にいる”こととともに生じてくる
◆自律ということは、私が自己の生の意味を生きることである。それは、私が生きている社会的・物質的条件によって設定されたある範囲の中で、私が自分の思うままに生きることを指すからである。
◆自分自身の生を生きるためには、私はケアすることと自分の生に対し責任を持つこととをとおして、私の生を自分自身のものとしなければならない
◆そもそも私は、最初から自律的であるわけではない。自律とは、成熟とか得がたい友情の深まりと同じく、ひとつの達成なのである
◆あるものに対し深く全一的に自分を投入することがなければ、人は自分自身であることはできない。私が自己の生の意味を生きるといえるのも、私がある対象に依存していればこそである
◆むしろ他から必要とされたり、他に身をゆだねるような何かがあるときに、そちらの方こそ自由だと感じる

◆私の方向性というものは、他者の成長によって大体のところ決定されているのではあろうが、私はほかならぬ私自身を、私の行為を始動する者、また私自身の人生に対し責任を持つものとして感じている
◆方向性というのは、私の生活の中から自然と姿を現すものであり、私に対し、外から前もって決められていたり、強制されたりするものではない
◆自分以外の他者の成長と幸福を、私自身のそれと同一化するからこそ、自己の拡張というものがある
◆退屈な状態においては、現在というものはあたかも砂漠のようであり、成長するものは何もなく、貴重なものもない。
◆自立は自己理解を前提とする。その理解がないと、結局、自分が自分の障害となってしまい、どうどうめぐりするしかない
◆”場の中にいる”ことにより、私は人生に十分没頭できると同時に、私たちの社会に広く存在している成長を妨げるような生き方から自由でいられる

◆私が他者から受け取るのは、自分が与えているから
◆感謝というものは、私が受けた恩恵に対して感謝の気持が表現されるまでは、まだ不完全な状態にある
◆自己の生の意味を生きるということの根底的な性質は、くしくも、生の尽きせぬ深みを限りなく知ることに通じている



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2016年7月11日月曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第5章

前回
第4章

選挙、自民が勝ちましたね。
櫻井充さんが再選して個人的には嬉しいです。
では本編。


第5章
◆ひとたび他者をケアすることとなったとき、以前重要であると感じていた多くの事柄が、その重要性に変化を生じ、ケアに関係した事柄が新しい重要性を帯びてくる
◆自分のケアとその諸条件とがかみ合わないものは除外してゆき、全く関連していないようなものは切り捨てていく。こうした序列化の活動は、いわば自然が芽を吹くように人生の内面から出現してくる
◆私のするケアが十分包括的なものであるならば、このケアは私の生活のあらゆる領域に深くかかわってきて、実りある秩序を提示する
◆全面的な序列化をする際には、ある種の事柄や活動をあきらめなければならず、そのため服従という一要素をも含んでいる。しかし、この服従は、きほんてきには自分自身を解放し、確信を与えてくれるものなのである
◆この服従は自己主張をしりぞけ、自己をありのままに認めるようになる意味を持っている。私はじこの人生の諸条件をこうあって欲しいと願うかわりに、そのまま受け容れるようになる。

◆私たちは全面的・包括的なケアによって、私たちの生を秩序だてることを通じて、この世界で”場の中にいる”のである。
◆自らを発見する人が、自らを創造することについても大いに力をつくしたと同様なやり方で、私たちは自分たちの場を発見し、つくり出していくのである
◆場は、それが個人の所有物であるかのごとくに、私が所有しているものではない。むしろ私は、他の人にかかわっている、そのあり方ゆえに’場の中にいる’といえる
◆場というものは、たった一度だけ確立されればそれでよいというものではない。成長していこうという他社の要求にこたえて私たちが応答すること、これこそ私たちに場を与えてくれるものである
◆場は実体化されるべきものでもない。これは物でもないし、固定した状態でもない。場の中にいることを安定した状態になることと考えるかもしれないが、安定とは力動的なもので静止しているものではない

◆自分に適した場所を知ることにより、場の中にいることができなくなる場合さえ、しばしば起こり得るのである
◆私が場にいるということは、場の中にいることから他の人たちを排除することを前提としているのではない
◆私には場の外にいる人たちと自分を比較したり、その人たちよりも自分自身を上に位置付ける必要は全然ない
◆ケアすることが、私が場の中にいることを可能にするほど全面的・包括的なことであるとすれば、ケアは、私に特有の能力に根ざしていなければならない
◆ケアが十分包括的なものであるためには、私たちは自分自身をケアしなければならない。なぜなら、自分自身の成長の欲求にこたえられないような人は、けっして場のなかにいることができない
◆あるケアの方が他のケアに優先するという場合も、ときには出てくることがある。しかしこうした不均衡は、やがては平衡が保たれ解決されるにいたる。
◆私たちは同時に多くのことに専心することは実際できない。時間の方がそれほどない。

◆補充関係にある対象に無関心であることは、同時に自分自身への無関心にもつながり、やがては場というものを失ってしまう結果になる
◆私の対象が、私のせいにとって中心的なものとなるまでに成長しなければならないように、自分自身もまた、こうした包括対象を持つことができるように成長を遂げなければならない
◆ある特定の対象が自己と補充関係にある対象であるかどうかは、それが短期的な観点から観察されるか、あるいは長期的観点から観察されるかによる
◆私は自分と補充関係にある対象に関しては、その要求に対し、いつでもこたえることが状態にある。

◆ある対象が成長していくならば、その対象が私に持っている特定の要求によって、私は私の生の意味を生きることが可能となる
◆ある目的のゆえに自分の生の中で意味を強く感じとったり、意味あるときを過ごしたり、あるいは、他の人が私の生を意味あるものとみなしていることがあったりしても、必ずしもそれで、私が私の生の意味を生きているということにはならない
◆意味ある状態でいられるかどうかは、私自身の能力や限界、私が存在している一般的環境、そして私にとって可能な手段の如何による
◆私は私の生の意味を生きるためにケアにたずさわっているのではなく、私と補充関係にある対象へのケアを中心にすえた人生を生きること、それ自体が、私が私の生の意味を生きることになる


ラスト!
第6章







2016年7月9日土曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第4章

前回
第3章

「自己中心的な人は、自分を正直に見つめることを避けている」
これはキラーフレーズですね。


第4章
◆自分以外の人格をケアするには、私はその人とその人の世界を、まるで自分がその人になったように理解できなければならない
◆相手の目に映るようにその人の世界を見るといっても、その人の世界に対するその人の反応と同じ反応を私も持つ、ということではない
◆”私とともにいる”ことは、ケアのもつリズムのうちの一つの相であり、その当の相手とぴったりと、ともにいるということ

◆彼の成長が彼をケアする人の中に、賞賛、驚き、心からの喜びをひき起こすのに気づくことほど、彼に取って励ましとなることはそう多くない
◆心からの喜びとしての賞讃は、おだてと混同されてはならない。賞讃によって、私はケアされる人に近づきうるし、そのとき私は、相手のありのままを見るのである
◆相手が私のケアを通じて成長していくのならば、その人は私を信頼しなければならない。私を信頼できてはじめて、その人は私に対して率直に自分自身をさらけ出すことができ、私も相手をよく知ることができるからである
◆私をケアする人を私が信頼するかどうかは、その大部分が、彼が私にとって誠実であると考えることができるかどうか、また、彼にケアされている私の現実の経験がどのようであるかにかかっている
◆私が成人をケアする際には、私は彼に変わって決断することをできるだけ避ける。もし私が彼に代わって彼の決断をすれば、私は彼をないがしろにしているのであり、彼を子供のように扱っていることになる

◆ケアすることのほとんどすべての特性ー専心、信頼、忍耐、謙遜、正直、そして過程の第一義性は、そのまま自分自身をケアすることにも当てはまる。
◆私は自分自身から切り離され、別個の存在となったものとしてではなく、私が自分自身と一体となっているものと感じなくてはならない
◆自己中心的な人格は、根本的にその人自身には関心を持っていない。彼は自分を正直に見つめることを避けている。彼が他ならぬ自分自身を実現したいという固有の欲求に対して、本質的に無関心だからである。
◆他者をケアするということは、自己をケアするということでもあるが何か他の物事をケアすることと自己をケアすることとの関連性は、さほど密接なものではないように思える

つづき


2016年7月4日月曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第3章

前回から結構経ってしまいました。
第1章

今日は有給でした。
ホテルで朝食からの、プール、カフェでお茶という島耕作みたいな一日でした。
いやあ、優雅やった。
まとめもしっかりとやりますぜ。

今回まとめた章は、かなり示唆に富んでいますよね。

第3章
◆相手をケアすることにおいて、その成長に対して援助することにおいて、私は自己を実現する結果になる。
◆教師は学生をケアすることによって成長し、親は子供をケアすることによって成長する
◆信頼、理解力、勇気、責任、専心、正直に潜む力を引き出して、私自身も成長する
◆私は、自分自身を実現するために相手の成長をたすけようと試みるのではなく、相手の成長をたすけること、そのことによってこそ私は自分自身を実現するするのである

◆ケアにおいては、成長よりも過程が第一義的に重要である。というのは、私が他者にかかわることができるのは、現在においてのみのことだからである
◆現在は、過去から受け継いだ示唆と洞察によって支えられているのであり、新しい成長を見込むことができるという未来への期待によって豊かなものとなっているからである。
◆現在の関心と欲求は、過去の示唆や洞察の中でどのようなものが現在に関連しているか、また、未来におけるどのような可能性が現時点で実際的かつ重要といえるのか、これを明らかにすることができる
◆子供が早く成長して、現在そうでないのに”ひとかどの人物”になって欲しいと望むあまり、焦りすぎる父親は、真の意味で現在の子供をとらえていないのであるから、ケアするということは不可能である

◆ケアするには、ときに特別な資質あるいは特殊な訓練を必要とする。一般的なケアができるということのほかに、ある特定の対象に対してもケアできなければならない。
◆精神病患者に対するケアでは、特殊な訓練以外に、人間関係についてのなまはんかでない感受性が要求される
◆相手に対してケアできなければならないのと同様に、相手もまたケアを受容できる状態でなければならない。

◆ケアは連続性を前提としている。ケアの相手が、絶えず一人また一人と変わるようであれば、ケアは不可能である。対象は一定でなくてはならない。ケアすることは発展的過程を指しているからである。
◆尊敬に値する人が相手に対する約束を破れば、それは自己をも裏切ることである。それと同様に、ケアにおける自責感は、単に相手を裏切るということを意味するだけでなく、自己背信をも意味している

◆友情が深い場合、そのケアは相互関係にあり、お互いが相手に対しケアをするのである。ケアは伝染する。私が相手をケアすることは、その人が私をケアすることの活性化をたすける。
◆全てのケアは、終わりを告げることをもって理想としているように思えるが、私たちは相手の成長を互いにたすけ合うような成熟した関係が、無限に続いてくれることを望む

◆よい日もあれば悪い日もある。ケアには浮き沈みがある。
◆私がある対象について、それが本来的に持っている権利ゆえにそれが存在していると、心の底から感じとっていないならば、私はケアしているということにはならない
◆自分の行動は相手の成長の動態によって変化すべきであり、実際に起こっていることに照らして修正されるべきである以上、もし相手が事実上成長していないのであれば、私は相手の要求に対応していないわけであり、ケアをしていることにはならない。


つづき
第4章



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2016年6月11日土曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第2章ー2

つづきです。
第2章ー1

◆”あの人は私を信頼している”という認識は、ケアされている人が、そのような信頼が正しいものだと信じ、自分自身が成長していくのだということを確信するのに、大きな力を発揮する
◆信頼の欠如が露呈されると、私たちは相手よりも優位に立とうとしたり、ある鋳型に無理やりに当てはめようとしたり、成果について保証を要求したり、さらには”ケア”しすぎる結果となってしまう
◆未知のものを恐れたり避けたりする人や、いかなる結果になるかをどんな場合でも確信しないではいられない人は、相手にまかせ、その相手が自分のやり方で成長していくのにまかせることができない人なのである。
◆相手を信頼する一方、、私はまた、ケアにたずさわる自分自身の能力も信頼しなければならない
◆私の行動が正しいか否かに自信がなく、それにいつも気をとられていると、自身への信頼の欠如に陥り、さらに自分に注意を向けすぎると、相手の要求がなお見えなくなってしまう

◆ケアは自分の相手の成長に対応していくものなので、ケアは相手について継続的に学ぶことを含んでいる
◆問題はいつも、直面するその新しい状況に対して何が適切かということであり、原則を単に機械的に応用して行けばよいというような過去の反復ではないからである
◆ケアそのものが、より広い意味の謙遜と言う内容を持っている。それは、相手をただ私自身の欲求を満足させる存在として見たり、自分にとっては単に克服すべき障害と考えたり、自分の気のすむように形づくっていけばよい粘土であると思って扱ったりするような態度をあらためさせる。
◆ケアを通して、自分の能力のみならず、自分の限界が本当に理解できるようになる。私に限界があっても憤ったり、美化すべきではなくて、私の能力をうまく活用することによって誇りを持つことができるのである。

◆希望は、現在の豊かさの表現であり、可能性の期待でいかにも生き生きした現在そのものなのである


2016年6月9日木曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第2章ー1

本文とは関係ないんですけど、
c型肝炎の薬が、また米国で承認申請(優先措置を取られている)されているそうです。

c型肝炎の 薬は一気に進歩しています。
薬剤師集団flzzさんのブログ(分かりやすくよくまとまっています)

今までは1ー6ある遺伝子型の1つや4つとかで使われていたのですが、
次出てくる薬はこの全部のタイプに効くという優れもの。
ガチでc型なくなるかもしれません(腎機能障害がある方には使えなかったりするので、そういう問題はありますが)。



では本編です。
前回 第1章


第2章
◆ケアするためには、私はその人の要求を理解しなければならないし、それに適切に応答できなければならないし、しかもまた、好意があるだけではこのことが可能でないのは明らかである
◆その人の要求にどのようにこたえるか、私自身の力と限界を知らねばならない
◆一般的な知識と個別的な知識は、お互いに補い合うものである。
◆あることを直接的知ることとは、単にそれを経験したということだけを意味するのではなく、それと直面し邂逅することであり、それ自身の権利において存在するものとして、それを理解することである。ケアにおいては、私は他人を直接的に知る。
◆ケアしていく中でいかに多くのことを知り得るかを、私たちが認識しきれないのは、私たちが知識というものを、言葉に表しうるものに勝手に限定する性癖が、ときおり頭をもちあげるからである

◆私が一人の人間をケアするにあたって、何もしないことがたびたびある。私がこの非行動性の状態にあるときこそ、過程やそれが動いていく結果を見、かつ考え、そこから適切に自分の行動を変える準備のときである
◆狭い枠組とより広い枠組みとの間を往ったり来たりする行動リズムはケアにおいても重要である

◆忍耐(Patience)はケアには重要な要素である。忍耐のおかげで、私は相手にとってよいときに、相手にそった方法で、相手を成長させることができる
◆忍耐できない人は、時間を与えることができないばかりではなく、相手からしばしば時間を奪ってしまう事態になる
◆忍耐を単に時間的側面からのみ理解するのは誤っている。というのは、私たちは相手にほかの余地も与えているからである。
◆ケアする人は忍耐強い。なぜなら、相手の成長信じているからである。しかし相手に忍耐を示すと同時に、自分自身に対しても忍耐せねばならない。
◆私はケアする機会を自分自身に対してもつくってやらねばならない。

◆他者をケアする中で、あるがままの相手を見つめなければならないのであって、私がそうであって欲しいとか、そうあらねばならないと感じる気持ちで相手を見つめることではない
◆正直であることがケアに全人的な統一を与える
◆もしも他人の要求を見てとり、それにこたえることよりも、自分がどのように見られているかに気をつかっているなら、私は相手のために十分な存在であることはできない


第2章ー2



2016年6月5日日曜日

ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ 第1章


◆一人の人格をケアするとは、もっとも深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである。
◆他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きている
◆”ケアすること”と’’自分の落ち着き場所にいる’’という二つの概念は、人間であることについて実りある考え方を提示してくれる。そしてそれ以上に大切なことは、私たち自身の生を自分たちがもっとよく理解するのに役立つということなのである。

第1章
◆ケアする際に経験される相手との合一の体験は、寄生的関係で起こる合一とは異なる。相手を支配したり所有しようと試みるのではなくて、私は、それが本来持っている存在の権利において成長すること、またよく言われるように’それらしくなる’ことを望んでいる
◆ケアしている親にとって、子供はそれ自身の価値を持っていると感じとられている。そのときその価値は、親たちの要求を子供が満たす力を持っているのとは全く別のものなのである
◆他者を支配する力を私に与え、他者に優越する何ものかを私にそなえさせる一つの関係性の中でではなく、むしろ一種の信頼感の中で、私が他者から必要とされていると深く感じ取っている
◆他者が成長するのを援助するとき、私は自分の方針を他者に押しつけたりはしない。私はむしろ、他者の成長の方向をみて、それが、私がケアの中で何をするかを導き、どのように私が応答すべきか、そしてそのような応答には何が適切であるかを決めるのに役立ってもらうようにする
◆他者の成長を尊重することから生まれる方向性を、”他者の志向まかせ”と混同してはならないー後者は、私が自分自身とも生きた接触を失った一種の妥協を指すからである

◆専心は、友情に不可欠な要素であるように、ケアにとって本質的なものである。
◆長い目でみた場合、専心は私の首尾一貫性によって示される ー 不利な状況のもとで退かないことや、困難をすすんで克服していくことにみられる一貫性である。
◆専心のひとつの帰結として導き出される諸義務は、ケアを構成する本質的な因子である。私はそれが、自分に押しつけられたものとか、必要悪とは感じないのである。
◆ケアすることの実際場面では、ケアの対象はどれでもよい一般的なものではなく、いつも特定の誰かであり特定の何かである。

◆ある人が成長するのを援助するのを援助することは、少なくともその人が、何かあるもの、または彼以外の誰かをケアできるように援助することにほかならない。またそれは、彼がケアできる親しみのある対象を発見し、創造することを、励まし支えることでもある
◆成長することとは、その人が新しいことを学びうる力を持つところまで学ぶことを意味する。
◆学ぶとは、知識や技術を単に増やすことではなく、根本的に新しい経験や考えを全人格的に受けとめていくことをとおして、その人格が再創造されることなのである
◆できるだけ独り善がりの幻想を排し、自分自身を見つめるようになってはじめて、彼は何が手段であり、何が目的であるかを理解するようになる
◆見かけ上は異なった種々の活動が、どの活動もケアすることを含んでいるので、互いに関係を持つことが明らかになる
◆ ”ケアする”という概念は、”信頼””正直””謙遜”という他の意義深い概念との関係を明らかにすることによっても展開される



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