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2017年8月10日木曜日

タリバン アハメド・ラシッド その4

前回
その3

第3章
◆カブールに対するタリバンの10か月間攻勢は、タリバン側の死傷者増大で失敗し、内部の動揺が拡がっていた。長い冬の間、穏健派はカブール政権との交渉の必要性を公然と主張した。強硬派は、全土制服の戦いを続けるよう望んでいた。パシュトゥンの内部対立は拡がっていた。
◆会議参加者の相違を乗り越えるため、ムラー・オマルを取り巻くカンダハル・グループは、オマルを「アミール・ウル・モンイーン」すなわち「信仰者たちの指導者」として指名した。これは、かれを異議なき聖戦の指導者、そしてアフガニスタンの首長とするイスラム的称号だった
◆バイアトという忠誠の誓いは、預言者ムハンマドの死後、カリフ(後継者)オマルが、アラビアのムスリム社会の指導者として確認されたときと同じ手続きだった。預言者のマントを着たことで、大きな政治的成功を収め、ムラー・オマルはすべてのアフガン人だけでなく、すべてのムスリムを指導する権利を手中にしたのだった。
◆オマルにとって、この称号はどうしても必要な正統性と、他のムジャヒディン指導者たちがパシュトゥン人から得られなかった新たな神秘性をかれに与えるものだった。それは、日常的な政治から彼をさらに引き離し、外国の外交官と合わない口実を与え、タリバンの指導部の権限拡大や反対派と話し合うことなどについて、より硬直した姿勢をとることを許すものだった。

◆ラバニ大統領は、ヘクマティアル派、ハザラ人勢力を追いだし、タリバンの攻勢を撃退した軍事的成功で、いまこそ支持を拡大して、強力な政権基盤を固めるときだと思い込んだ。ラバニ派他の軍閥たちと、新政府をつくってかれらをそれに加えるという人参をぶら下げながら、話し合いを始めた
◆タリバンは、軍閥たちとは決して一緒に行動しようとはしなかった
◆モスクワは、アフガニスタンから油が注がれているタジキスタンでのネオ共産党政権とイスラム反乱勢力の四年間にわたる内戦の終結を望んでいた。インドは単にパキスタンがタリバンを支持をしているというだけの理由で、カブール政権を支持していた

◆イランはまた、マシャドの近くに、イスマイル・ハン前ヘラート州知事が率いる約5000人の部隊のための訓練基地五か所を作った。カブール政権へのイランの支援は注目すべきことだった。なぜならテヘランは、カブールで前年、シーア派のハザラ人多数がマスードの部隊に虐殺されたことへの怒りを抑えなねばならなかったからだ
◆クリントン政権は明らかにタリバン寄りだった。タリバンはワシントンの反イラン政策に沿っており、カスピ海からイランを通らずに南へ向かうどのパイプライン計画を成功させるためにも、重要な勢力だったからだ
◆96年6月、ヘクマティアルはこの15年間で初めてカブールに入り、ラバニ政権が提供した首相のポストに就任、かれの党は9つの閣僚ポストを引き受けた。同日、それへの報復として、タリバンはカブールへの大規模なロケット攻撃を行い、61人が死亡、100人以上が負傷した

◆ラバニとこれら軍閥たちの合意で、かれが提案した「全アフガン人対話」が始まった。それは重要な成功で、ラバニが同盟を固める前に行動を起こさねばならないと気づいたタリバンを、狂暴にするものであった
◆他の軍閥たちと取引を拒否するタリバンの頑固さに、パキスタンは不満を募らせていたが、タリバンが冬になる前にカブールを占領するため、新たな大攻勢への支援を要請したことに、結局、納得したようにみえた

◆タリバンは96年8月、ジャララバードに奇襲攻撃を開始した。
◆マスードは、全方向から攻撃されれば首都防衛が不可能であることを知っており、戦うことなく首都を放棄することを決断した。かれは戦って多くの血を流し、カブール市民の支持を失うことを望まなかった。タリバンの完全勝利だった。

◆ナジブラの処刑は、カブールでのタリバンの蛮行を象徴する、最初の出来事だった。それは市民たちを恐怖に陥れるための前もって計画された殺人だった
◆ナジブラの身体を傷つけ辱めたことは、いかなるイスラムの命令からも逸脱しており、公正な裁判もなく、死体を見世物にしたことにカブール市民の多くが強い反感を抱いた

◆マスードは最も輝いた軍司令官の一人で、対ソ聖戦の中から、そのカリスマ的人格が出現した。生地がカブール北方のパンシジール渓谷であることから「パンジシールの獅子」と称えられた
◆かれ自身の大きな問題はタジク人であることだった。1929年の短期間に終わった決起のとき以外、タジク人がカブールを支配したことはなく、パシュトゥン人は信用していなかった

◆10月10日、カブールを追われたラバニ大統領、マスード、ドスタムそしてハザラ人の指導者カリム・ハリリがサラン街道沿いのヒン・ジャンで会談し、タリバンに対抗するため「祖国防衛最高評議会」を結成した
◆カブール陥落とそれに続く激しい戦闘は、この地域全体に大きな不安を引き起こした。イラン、ロシア、中央アジアの四か国は、タリバンに北進しないように警告、反タリバン同盟の軍備再強化を支援すると公に宣言した。一方、パキスタンとサウジアラビアはカブールに特使を送り、どのような支援がタリバンの役に立つのかを検討させた
◆多くの人たちが不可能だと予想していた、学生運動による首都占領がまさに実現した。人的損失が巨大だったにもかかわらず、タリバンの威信はかつてなく高まった





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2017年6月25日日曜日

タリバン アハメド・ラシッド その3

前回
その2

第2章
◆若者たちの多くは、これまでの人生をパキスタンのバルチスタンか北西辺境州にある難民キャンプで過ごし、アフガン人のムラーやパキスタンのイスラム原理主義者政党によって国境地帯に設けられた何十校ものマドラサのどこかで、イスラム教育を受け、なにがしか身につけた。
◆かれらを教育したムラーたちは、女性は誘惑的で男性をアラーへの奉仕から引き離す不必要なものだと、強調した。だから、タリバンがカンダハルに来て、女性たちが外で働くことも、学校に行くことも買い物に出ることさえも禁じて、家庭に閉じ込めた際に、マドラサの若者たちの大部分は、こうした措置を何も異常だとは思わなかった。

◆皮肉なことにタリバンは、目的達成のために規律正しく、動機が明確で、非常だという点で、イスラムと戦うために宗教的軍令を布告した十字軍とそっくりである
◆タリバンが圧倒的な勝利を始めた最初の数ヶ月に、神の兵士だけが持つ不敗神話が作り出された。

◆マザリの死は、アフガンのシーア派とその保護者のイランの眼に、タリバンを非難の対象として永遠に映すこととなった。ハザラ人はマザリの死を絶対に許さず、2年後、北部で数千人のタリバンを殺して復讐した。

◆マスードは、カブール南郊でタリバンがハザラに加わるのを許すつもりはなかった。95年3月11日、かれはタリバンへの懲罰的攻撃を開始、タリバンは市街戦で数百人が死んだうえ、市外に追い出された。これは、タリバンが敗北した初めての戦闘だった。

◆前進しながら、タリバンは大量の小火器、戦車そしてヘリコプターまで手に入れ、部隊をもっと多く配置できるようになった。彼らが支配したところでは、住民は武装解除され、道路も通行できるようになったので、すぐ食料品の価格が下がった。長く戦争に苦しんできた人々は驚喜した

◆イスマイル・ハンほど、名声が高いムジャヒディン司令官はいなかったし、ソ連との戦争で、ヘラートほど市民が犠牲になったところはなかった
◆ソ連はペルシャ語を話すヘラート市民は扱いやすく、平和的で、アフガン人のなかでは最も洗練されていると思っていた。
◆1980年、市民たちは前例のない都市蜂起に立ち上がった。市民たちがソ連軍将校とその家族たちを殺したので、イスマイル・ハンは市内のアフガン政府軍兵舎で反乱を起こし、ソ連兵とアフガン人の共産主義将校を殺し、市民たちに武器を配った。ソ連人数百人が死亡した
◆モスクワは反乱鎮圧のためソ連トルクメニスタンから戦車300両を急派して、数日間に2万人以上のヘラート市民が殺され、イスマイル・ハンは新しいゲリラ部隊とともに市外に脱出、数千人の市民がイランに流出した

◆その後の10年間、イスマイル・ハンはソ連占領軍に対する熾烈なゲリラ戦を続け、支配地域では効率的な行政を実施して住民の尊敬を集めた
◆イスマイル・ハンは、93年の時点で、その半分が女生徒の4万5千人の生徒たちを、市内の学校で学ばせていた。支配下の三州でその数は、7万5千人に達していた
◆カンダハルをタリバンが占領したときには、45の学校が閉鎖され、少女たちは自宅で勉強することも禁じられた
◆95年、タリバンの機動部隊がヘラートに突入、イスマイルの部隊はパニックとなり、かれはヘラートを放棄、司令官たちや数百人の兵士とともに、イランに脱出した

◆ヘラート陥落に怒ったカブールの新政府群衆はが、パキスタン大使館を襲撃、政府軍兵士が見ている前でパキスタン大使を傷つけた。カブールとイスラマバードの関係は最悪になり、ラバニ大統領は、パキスタンがタリバンを使ってかれの政権を打倒しようとしている、と公然に非難した
◆ヘラート陥落はラバニ政権の終わりの始まりだった

その4




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2016年9月13日火曜日

二日市保養所を訪問(なつやすみその2 福岡編)

先の九州旅行の最終日、
福岡県にある二日市保養所跡に行き、
見学及び水子供養のお祈りをさせていただきました。

ここは、私の学生論文の中に出てきた場所で、
現場に行くことなく記述したことをずっと悔やんでいた場所でした。

そこで今回連れに無理を言って、
ちょっと博多から離れたこの場所に行かせていただきました。

二日市保養所とは、一言で言うと
「敗戦後、大陸から引き揚げる際に、強姦され、
妊娠させられた女性に中絶手術を行う場所」
です。

敗戦後満州などに住んでいた日本人の、
引き揚げの際の地獄絵図については「水子の譜(うた)」や、その他証言を集めた書籍、
満島ひかり主演のNHKドラマ「開拓者たち」などで描かれていました。

日本においては、明治以降、中絶は刑法に反する犯罪であり、
その時々の法律の解釈によって、一定の要件に該当する場合、
その違法性を阻却するという考え方で運用されてきました。

当時日本には、国民優生法という法律があり、
軍の産めよ増やせよの方針の下、
母体の危険がある場合を除いて中絶ができないという解釈・運用がなされていました。

そのため、妊娠させられ引き揚げてきた女性についても、
当時の法律では中絶を行う事ができませんでした。

そこで当時の厚生省引揚援護庁は福岡県筑紫郡二日市町に保養所を作り、
博多港で女性たちに相談を募り、
該当する女性を保養所へ連れて行き、
中絶を行うという超法規的措置を行いました。

医療物資が不足する中、
麻酔も受けられずに手術を受けた女性は、
手術を受けた後、各々故郷に帰っていったそうです。

法律では中絶を行った医療者にも刑罰規定を設けられていたため、
それを顧みず手術を行った医療者の覚悟と判断には改めて敬意を表します。

二日市保養所は現在、済生会傘下のむさし苑という特養になっています。
その駐車場に写真のような石碑と水子供養の祠がひっそりと建っています。

とてもきれいな特養です。
特養の敷地内にあるので不法侵入にならないように気を付けてください。

アポなしで、しかもハーフパンツで訪問したのにも関わらず、
丁寧な対応をしていただき心より感謝しています。
(ご好意でたまたま対応していただけたのだと思いますので、必ずご連絡の上訪問下さい。)

個人的な感想としては、
二日市保養所は今の筑紫野市にあるのですが、
「何でもっと発信しないのかな?」という疑問があります。

センシティブなのは分るのですが、
戦後70年以上経ってここまで知られていないのは…って感じです。
まあ確かに患者のプライバシーもありますので難しいところだとは思いますが。。。

実際に草の根からの情報発信が多いような気がします。





戦争の悲惨さや狂気を伝える一つの大事なものであることは間違いないので、
情報発信してもよいのではないでしょうか。

「仁」の石碑。


水子供養の祠。





いやあ、マジで戦争はいかんよね。

って、
こんな安易な締めをするために見学に行ったわけではないんだけど、
正直この言葉しかでなかったわ。

もう少し咀嚼が必要。








追記
リクエストいただいたので、

関連書籍貼っておきます。

やはり水子の譜を呼んでいただきたいですが、
ちょっと現在は高いようなので、
「竹林はるか遠く」か、「流れる星は生きている」
あたりから手をつけてみてください。
何故かこの記事だけ海老蔵みたいな行間になってしまう。。。

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2016年5月29日日曜日

優生学と人間社会 第1章の2 米本昌平

第1章の1

続き。イギリスの話です。
◆19世紀後半は、精神病・精神障害者の問題が、社会的に急に重みを増しはじめた
◆初等教育の義務化により、大量の極貧層の子供達が初等教育を受けるようになった。多くの子供達が授業についていけなかったため調査を行い、5万人中9200人弱の精神・神経系の障害児がいることが分かった。これによって特殊学級のシステムが作られた。
◆極貧層の一部の人々は、精神障害という医学的課題とされ、王立精神遅滞保護抑制委員会が設置された。
◆この委員会により精神障害の区分と定義がされ、精神障害の女性の出産・育児が問題とされた。
◆精神障害は漠然と遺伝によると考えられ、一般の女性よりも他産であるとされた。このため精神障害と非嫡出子の子供が増えると考えられ、社会に倫理的危機をもたらす恐れが指摘された。
◆このため強制収容と性的隔離を含む精神病法案が準備されはじめた。
◆優生教育協会(前回参照)が強力なロビー活動を行った結果、1913年精神病法が成立した。

ここはソ連の話です。
◆優生学は極右の学問ではない。この時代、多くの社会主義者や自由主義者が、優生学は社会改革に合理的基盤を与えてくれるものと期待した。
◆新生ソ連にとって科学主義的な優生学は親和性があり、1920年代には強力な優生運動があった
◆1920年にロシア優生学会、1921年にロシア科学アカデミー優生学局が設けられる
◆これらの中心はメンデル派だったが、1925年にラマルク主義的な優生学の提唱者が大きく非難。メンデル主義的優生学がマルクス主義と相容れないとし、ラマルク主義の立場から環境改善による人類の遺伝的改良を主張。
※ラマルクの獲得形質遺伝説
→個々の個体が生涯で体を変化させ、変化の一部がその個体の子孫に継承されることで生物は進化していくという考え。重要な器官は強くなり、使わない器官は退化したり消失する(用不用説)。そして、それは少しずつでも子孫に継承される。

次はアメリカの話です。
◆1904年、ワシントンのカーネギー研究所は、コールド・スプリング・ハーバーに「実験進化研究所」を設置し、遺伝学者のブレークスリーとダベンポートが着任。カーネギー研究所は後にドイツの優生学研究の支援も行う。
◆プラグマティズムの伝統が強いアメリカでは、牛や羊の育種と遺伝現象が結び付いた。アメリカ育種家協会は、1906年に優生委員会を設置、1914年にはアメリカ育種協会がアメリカ遺伝学会に名称変更、遺伝学雑誌を発刊
◆ダベンポートは、1910年鉄道家ハリマンの未亡人の支持を受け、実験進化研究所に優生学記録局を設置。世界で初めて独自の建物・研究設備・専任職員を擁する機関。
◆ダベンポートは人類遺伝に関する膨大なデータを、個人とその家系のカードで収集。優生学記録局でフィールドワーカーを育成し、病院や救貧施設などに配置、カードを作成させ送らせた。これらのデータは、環境要因が大きいと思われる性質など今日からみれば価値のないものが異常に多い

◆優生学には、よい遺伝形質を積極的に増やそうとする積極的優生学と、悪い遺伝形質を抑えようとする消極的優生学がある。
◆よい遺伝形質を増やすための手段は人間には難しいため、現実に行われたのはほとんど消極的優生学。代表例が断種法。
◆アメリカで公式上初の断種手術は、1897年のシカゴ。1902年にインディアナ州の外科医シャープは、アメリカで犯罪者や精神障害者が急増していることを憂慮し、断種の効用を説いた。彼が収容されている犯罪者42人に断種を行ったことが、優生学的断種の出発点
◆傷害罪を避けるため、シャープらはインディアナ州議会にロビー活動を行い、世界で初の断種法を成立させた(後に違憲判決を受けて制定し直された)。インディアナ州断種法は、これに続く州のモデルになった。

独特なカリフォルニア州
◆1909年インディアナ州にならった州法を成立させたが、とくに刑務所の収監者を対象とした。1913年には、州精神委員会が精神病者だと認定した場合、断種された者のみ(両親か後見人の同意書が必要)が施設から出られるとした
◆法の運用面
 1.精神病者一般だけでなく、梅毒患者、性犯罪の累犯者などの罰則に適用
 2.断種実施件数がずば抜けて多い(1921年までには全米の79%、1936年末までには全米のほぼ半数)
◆カリフォルニア州の実績は、ドイツの優生学者に伝えられ、ナチス断種法はこれを十分検討して作られた

◆優生学記録局のローリンは1922年にモデル断種法を発表。手術費用の裏づけ、違憲判断を回避するための優生委員会の設置を盛り込む
◆1927年に連邦最高裁
「犯罪傾向の子孫を放置し、精神遅滞の子供を餓死に追い込むのを座視するよりは、社会が、明らかな不適応者が子供を作らないようにすることは全体にとって善である。強制的な種痘の法理は、じゅうぶん輸卵管切断にまで拡大しうる」


第1章の3








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